方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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方丈記に対する誤解

方丈記。

これ、本当に、多くの人が勘違いしていると思う。
少なくとも、僕はそう思っている。
だいだいね、「方丈記ってどんな作品ですか?」って質問すると、

・昔習った古典
・昔の貴族が書いた本
・昔の偉いお坊さんが書いた本
・クソ
・読まずに捨てた

ほとんどの人は、こんな回答をする。
良いんですよ、別に。
だいたい、方丈記なんか中学や高校の古典の授業でしか習わないし、読まないし。
僕だって、ここ最近になって読むようになっただけで、本当は、うすーくしか知らないんだから。

でね、学校の授業だと、先生が「諸行無常を書いた作品」とか「昔の人が書いた深イイ話」とか、まーそんなことを言っていたと思うのね、多分。
日本三大随筆の一つであり、特に冒頭の文章は名文だとか。

で、当時の僕は、「だからどうした?」とか「それが何?」ぐらいにしか思っていなかった。
学校の授業だから、テストに出るから、仕方なく、嫌々、我慢して、読んでいただけ。
高校を卒業すれば「もう二度と読むことはない」って思っていたし。
もっと言えば「こんなクソつまらん古典なんか読めるか!」って思っていたし。

とにかく、この方丈記に対して「いいね」と思ったことは一度もなかった。
そして、高校を卒業して20年以上経ったけど、方丈記を読んだことは一度もなかった。
「それ見たことか。学校で習った事なんか、本当に意味がない」と思っていた。

ところが、40歳の頃。

昔、孔子は論語で40歳のことを「不惑」と書いた。
不惑ということは、「惑わない」ということ。
つまりは、思い迷わなくなること。

いやー、無理だって。
ぜったい、無理。
ていうか、40歳ぐらいってさ、一番トラブルが起きやすくて、一番しがらみ多くて、一番惑う時じゃないの?
僕に言わせれば、40歳が一番人生で悩むとしごろ。
まーね、僕なんかは常に悩んでいて、妻からも「よくもそこまで悩めるなー」って言われたりもするけど。

と、まー、そういうタイミングで、ある日、100分de名著で「方丈記」を見ていた。
この番組、僕は、いつもではないけど、一応見ているわけ。
で、方丈記の回の時も見ていた。
で、衝撃を受けた。

全然、違う。。。

正直、こう思った。

とても面白かった。
ていうか、自分が中学や高校の時に習った方丈記は何だったのか!?
言葉とか文章って突き刺さってナンボじゃない?
昔習った時は、全く突き刺さらなかったのに、もうね、弁慶みたいに方丈記が突き刺さる。
とにかく表現できないぐらいのインパクトがあった。
学校での方丈記の授業、あんなクソみたいな授業をするぐらいなら、「100分de名著でも見せとけ!」と思ったぐらいだから。

学校の授業だと、必ず冒頭の文章を読まされる。
ていうか、無条件で暗記させられる。

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。」
ってやつ。

でね、まー、僕もだけど、ほとんどの人は、ここだけ読んで方丈記が分かったつもりでいる。
そして、ほとんどの人は、方丈記という作品を、昔の偉いお坊さんだとか、身分の高い貴族だとか、とにかく昔のえらーい人が書いた人生の説教本だと思っている。
国語の教科書に載っているぐらいだから、当然、教科書的な内容でこむずかしい作品だと思い込んでいる。

だから、はっきり言います。

学生時代に習った方丈記なんか、方丈記じゃない!!
学生時代に習った方丈記なんか、方丈記じゃない!!
学生時代に習った方丈記なんか、方丈記じゃない!!

大事なことは二度言うのがお約束なのに、三度も言ってしまった。
ごめんなさい。

いや、学校で習った方丈記、あれはあれで方丈記ではあるけど。
でも、これ、本当だから。
少なくとも、僕は、そう思っている。

単に、頭の中に知識として詰め込まれた方丈記なんか、本当の意味での方丈記じゃないから。
体のどこにも突き刺さらない方丈記なんか、方丈記じゃないから。
方丈記はね、失敗を重ねて、挫折を繰り返して、悩み苦しんで、人生のどん底を経験した者が読んで、初めて知識としてだけじゃなくて実感として理解できる、それが本当の意味での方丈記だから。

それで、ちょっとだけ紹介すると、方丈記の中頃に次のような文章があるのね。

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、短き運をさとりぬ」

これだけでは、サンドイッチマンでなくても、ちょっと何言っているのかよく分からない。
で、テキトーに訳すと次のような感じ。

だいたいが生きにくいこの世の中を、我慢を重ねて耐え忍び、心を悩ませながら30年以上生きてきた。
その間、自分の人生は、節目節目で挫折をし、転落の人生を歩んできたことを思うと、自分の人生は本当に運がなかった。

と、まーこんなことが書いてあるのね。
なんかさ、方丈記の印象がガラッと変わらない?
変わるよね?
間違いないね!
じゃー、話の続きをするね。

冒頭の文章では、作者(鴨長明)は、いかにも人生を悟ったようなことを書いていたわけ。
ところが、その中頃には、自分の人生は運がなかったとそんなことを書いているわけ。
しかも、めんどくさいから書かないけど、方丈記の最後の方は、完全に迷いまくりだから。

ただ、僕には、この一文、完全に突き刺さった。
僕が方丈記にはまったのも、この一文のおかげ。
だって、この一文、僕のことを書いたのかと思ったぐらいだから。
とにかくこの作品、ものすごく親近感がわいてくる。
昔の人もこうやって人生に悩んでいたのかと思うと、なんか救われるような気がするのね。

だから、僕の中では、方丈記は単なる古典じゃないのね。
もうね、人生の羅針盤。
生きる希望。
それで、方丈記という作品は、決して、どこかのえらーいお坊さんがえらそーに書いた文章じゃなくて、

「平安末期の都を舞台に、和歌と音楽にひたむきな情熱を傾けながらも、折々のたがひめに翻弄された男の不運な生涯を描いて、落ちぶれゆく者の悲しみと人生のはかなさと美しさが漂う幽玄の世界を謳いあげた文学作品」

なんですよ。
僕の中では。
というわけで、方丈記のイメージ、だいぶ変わりましたか?
この方丈記、人生に悩んでいるすべて悲しき若者たちに、おすすめしたい一冊。

今回はこの辺で。

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