方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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小田氏治~敗れても蘇る戦国最弱の不死鳥

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治:114
戦闘:110
智謀: 76
魅力: 63
野望: 65

今、一番アツイ戦国武将。
小田氏治。

人は彼を、

戦国最弱
不死鳥
ゾンビ大名
華麗なる戦下手
逆に最強

・・・と言う。

そんな小田氏治をNHKがほっとくわけがない。
さすがは天下のNHK。
きっちりと押さえてくる。
で、ついに、ついに、「大河ドラマ」・・・じゃないけど、
NHKが誇る歴史教養番組「歴史秘話ヒストリア」に取り上げられた。
ということは、「ふしぎ発見」に取り上げられる日も近いかもしれない。

一応書くと、「小田」であって「織田」じゃないから。

織田信長⇒戦国最強。
小田氏治⇒戦国最弱。

織田信長⇒天下人。
小田氏治⇒ダメ人間。

織田信長⇒戦国の覇者。
小田氏治⇒戦国の敗者。

ただね、この二人、性別以外に共通することがあった。
実は、二人とも、1534年生まれ。
もし話したなら、話は盛り上がったかもしれない。
テキトーに書いたけど。

で、この小田氏治、ちょっと馬鹿にした風に書いたけど、スゴイ部分もある。
それは、敗れても立ち上がるところ。
決して、敗れっぱなしではない。
あきらめないのだ。

<小田氏治の戦歴>
1555年 佐竹義昭と共に結城政勝を攻める。
1556年 結城政勝&北条氏康に攻められ、居城である小田城を奪われる。(海老ヶ島の戦い)
      北条氏康と和睦する。
      結城政勝を破り、小田城を奪い返す。
1557年 佐竹義昭と戦うも敗退する。小田城を奪われる。(黒子の戦い)
1559年 小田氏治の家臣・菅谷政貞が小田城を奪い返す。
      結城政勝の死去を突いて結城氏討伐の戦いを起こすも敗退する。
      結城氏に北条城を奪われ、佐竹・多賀谷連合軍に海老ヶ島城も奪われる。
1561年 上杉謙信の北条氏討伐に参加。北条方の結城晴朝と戦い勝利する。
1561年 上杉謙信と共に北条氏の居城である小田原城を攻撃するも敗退する。
      海老ケ島城奪還のために結城勢と戦う。
1562年 上杉謙信が越後へ引き上げ、北条氏の圧力が強くなった結果、北条氏康と和睦する。
1563年 大掾貞国と戦い勝利する。(三村の戦い)
1564年 北条氏康と和睦したことで、上杉謙信及び関東諸侯の怒りを買い、攻められる。(山王堂の戦い)
      小田城を奪われる。
1565年 佐竹義昭の死去を突いて小田城を奪い返す。
1566年 再度、上杉謙信に攻められ敗れる。小田城を奪われる。
1568年 結城晴朝を通じて上杉謙信に降伏。城の修理をしないことを条件に小田城に復帰する。
1569年 佐竹義重に小田城を攻められるも勝利する。
      佐竹方の真壁氏幹を攻撃するも敗退する。
1570年 結城晴朝と戦い勝利する。(平塚原の戦い)
1573年 小田城で大晦日、連歌会をしていたところ、翌日(元旦)に佐竹方の太田資正に攻められる。
      小田城を奪われる。
      すぐに小田城を奪い返す。
      再び、佐竹義重と戦うも敗退する。小田城を奪われる。(手這坂の戦い)
      この頃から、居城である小田城だけでなく、その支城も佐竹方に攻略され滅亡寸前に追い込まれる。
1574年 北条氏政に仕えていた小田友治(小田氏治の長男)を通じて、北条氏政に佐竹義重を攻撃してもらう。
      すでに小田氏単独では佐竹氏に対抗することはできず、北条氏の力を借りて佐竹氏に対抗する。
      佐竹方・額田義房と戦い敗れる。土浦城を奪われる。
      佐竹義宜と戦い敗れる。行方城を奪われる。
      佐竹勢と戦い勝利する。土浦城を奪い返す。
1577年 佐竹勢と戦い勝利する。手子生城を奪い返す。
1578年 木田余城をめぐり佐竹義重と戦いを繰り返す。
      その後も常陸国の覇権を争って、佐竹義重と戦うも完全滅亡しない程度に一進一退を繰り返す。
1590年 小田城を奪い返すため、佐竹義重と戦う。(樋の口の戦い)
      豊臣方の佐竹義重と戦ったことで、秀吉の怒りを買う。小田家滅亡。

すみません、長く書いてしまいましたが、ざっとこんな感じ。
分かりますか?
負けっぷり。
城の奪われっぷり、。
その奪われた城の奪い返しっぷり。

いいですねー(笑)

相手の当主が亡くなって、スキを突く形で攻めて負ける。
おめでたい元旦には、攻められて城を奪われる。
しかも、すぐに奪い返す(笑)
とにかく、強いんだか弱いんだか分からない。
どっちなんだろう。。。


小田氏治って、弱小大名の悲哀を常に感じていたと思う。
北条、上杉と巨大勢力に囲まれて、いつも苦労したと思う。
また、そこまで巨大勢力ではなかったけど、すぐ隣には佐竹もいた。
上杉と手を組めば、北条に攻められる。
北条と手を組めば、上杉、佐竹に攻められる。
本当に大変だったと思う。

ただ、色々と調べてみると、小田氏治のライバルであった佐竹義昭は、上杉謙信に「氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、右大将家(源頼朝)以来、名望のある豪家であり、氏治もまた普通に優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている」といった内容の手紙を送っているんだとか。
意外と言ったら失礼かもだけど、氏治の評価は高いみたい。

また、小田城を奪われた後、領民たちは新しい領主には年貢を収めず、わざわざ小田氏治に年貢を届けたという逸話もあるらしい。
ということは、氏治、領民たちによっぽど慕われていたのかもしれない。
で、そんなことを考えていると、戦にはめっぽう弱い。
でも、領民には慕われていた。
これって、なんか劉備玄徳と同じ感じがしない?
うーん、言い過ぎか。。。

で、この小田氏治って、本当に評価が難しい。
武田信玄や上杉謙信のような強さはない。
毛利元就のように智謀の限りを尽くしたわけでもない。
真田幸村のように華々しい最期を遂げたわけでもない。
織田信長のように天下に覇を唱えたわけでもない。
でも、「最後まであきらめないことが大事」っていうことを教えてくれたような気がする。

今回はこの辺で。

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