方丈記に、似た運命

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平清盛と源頼朝~源平の二大巨頭

昔から、平清盛と源頼朝では、どっちがすごいかという話がある。
まー、世代的に言うと、平清盛と源義朝、あるいは、平宗盛と源頼朝になるんだろうけど。
個人的には、どっちもすごいの一言で終了ですが。。。

まず、平清盛から。
平清盛と言えば、言わずと知れた平家のトップ。
で、ここで、ちょっとした疑問が。。。

「平家」と「平氏」って何が違うの?

そもそも、ふだん、平家と平氏の違いを意識したことがない。
で、ちょっと気になって調べてみた。
それで、名前博士として有名な森岡浩さんの解説によると、まずは平氏という大きなくくりがあるんだそう。
そして、その中で、関東に下向した坂東平氏は、その土地の名前から「三浦氏」や「千葉氏」や「北条氏」などと名乗ったそうです。

で、一方、伊勢に下向したのは、伊勢平氏。
この伊勢平氏は、伊勢に下向した後も、朝廷の下級役人として働いた。
で、当時、朝廷は、藤原氏を藤家、菅原氏を菅家、大江氏を江家と呼ぶ慣習があった。
で、その慣習に従い、伊勢平氏は平家と呼ばれたそうです。

つまり、平家とは・・・
狭義的には、平氏一門の中で、平清盛を輩出した伊勢平氏
広義的には、平氏一門
となるようです。

それで、僕が、小学校や中学校で習った頃は、平清盛や平家一門は、本当に評価が低かった。
とにかく、清盛とか平家と言えば、

・「平家にあらずんば人にあらず」に代表される、おごり高ぶった一族
・武士でありながら、貴族かぶれの政治をした
・平家物語での平清盛のヒールぶり
・最終的に源氏によって滅ぼされる

というのがあって、とにかく悪人として扱われることが多かった。

それに対して、源頼朝。
この方は、武家政権を打ち立てた英雄として扱われる場合が多い。
平治の乱で敗れ、伊豆に島流しとなるも、そこから這い上がり、平家を滅ぼし、奥州藤原氏を滅ぼし、日本を統一したとしてとても評価が高かった。

と、まー、こんな感じで習ったと記憶している。

ただ、この時代が研究されていくにつれて、平清盛に対する評価が上がる傾向にあるらしい。
つまり、平清盛は、平家物語の影響が強過ぎるせいか、極悪人のように書かれる場合が多いのね。
ところが、十訓抄や愚管抄を読むと、平清盛は、人間味のある心優しい人物として書かれてあったりするのね。
まー、これぐらい、最初っから気付けよって思うけど。。。

また、清盛の一族では、一門内で争ったという話を聞いたことがない。
もちろん、一門内で敵味方に分かれて戦ったこともあるし、一族が分裂しかねない危機もあったわけ。
でも、清盛の一族で殺し合ったイメージはない。
たいていの場合、党内野党的な人物も、最終的には、清盛に忠誠を尽くしている。
少なくとも、清盛に対して協力的な態度を見せていると思う。

それに対して、源頼朝の一族の場合。
僕の中では、けっこう殺伐なイメージがある。
例えば、

・源義賢(木曽義仲の父)は、源義平(源義朝の子)との戦いで殺される。
・木曽義仲は、源範頼・源義経(いずれも源義朝の子)との戦いで殺される。
・源義経は、源頼朝(源義朝の子)との戦いで殺される。
・源行家(源義朝の弟)は、源頼朝(源義朝の子)と対立し、捕まって殺される。
・源頼家(源頼朝の子で鎌倉幕府二代将軍)は、御家人の北条氏(北条氏は平氏ですが)によって殺される。
・源実朝(源頼朝の子で鎌倉幕府三代将軍)は、源頼家の子に殺される。

といった具合。
とにかく、頼朝の一族は、血で血を洗う争いが多い。
まー、このあたりは、頼朝の一族には、こうならざるを得ないバックグラウンドが何かあったのでしょうね。
で、結局、頼朝の流れは途絶えてしまう。
ただ、鎌倉幕府による中央集権化は、成功したと言えるのかもしれない。

で、ここで、平清盛と源頼朝の比較をして見る。
一般的な評価だと、平清盛=独裁者、源頼朝=冷徹人間、といったところ。
但し、武家政権を目指したという点では、二人とも大差はないと思う。
また、中央集権化を目指した点でも、そんなに大差はないと思う。
ただ、そのやり方は大いに差があったかもしれない。

例えば、源頼朝の場合。
頼朝は、鎌倉幕府を開いて、武家政権を完成させた。
鎌倉だから、京都とはだいぶ離れている。
分からないけど、朝廷に振り回されることもなかったんじゃないだろうか。
あくまでも、源頼朝がトップ。
そして、守護・地頭を置くことで、全国を統治するというスタイル。

一方、平清盛の場合。
一応、武家政権を築くことはできた。
しかし、清盛の本拠地は、六波羅。
ということは、必然的に、後白河法皇を筆頭に朝廷、延暦寺・興福寺といった宗教勢力との争いに巻き込まれることも多かったと思うのね。

特に、後白河法皇との関係。
清盛にとって、後白河法皇は、自分の正当性を主張する上で、大事な人物だったと思う。
例えるなら、曹操と献帝、三好長慶と足利義輝、織田信長と足利義昭だろうか。

ところが、鹿ケ谷の陰謀あたりから、後白河法皇と清盛の関係は、一気に冷えていく。
二人の関係が良好な内は問題ない。
しかし、関係が悪くなると、後白河法皇は、内部から平氏政権を蝕んでいく。
結果的に、清盛は、後白河法皇に振り回された分だけ、武家政権の完成度が低くなったのではないか。
そもそも、清盛と後白河法皇との関係は、保元の乱からの付き合いであり、この付き合い(あるいはその長さ)に、清盛は縛られてしまったという側面はあるんじゃないかと思うんだけど。

統治については、国守護人、地頭、畿内惣官職などを設置している(らしい)。

国守護人・・・・守護に相当
地頭・・・・・・地頭に相当
畿内惣官職・・・征夷大将軍に相当

ということは、平清盛と源頼朝では、国家の統治については、大差ないのかもしれない。
それから、平清盛は、これからという時に、後白河法皇に翻弄されて、一族は滅ぶことになった。
源頼朝は、後白河法皇に足を引っ張られることはなかったが、身内の争いに翻弄されて、頼朝の血は三代で終わる。
こういう点も、案外、似ているのかもしれない。

で、最後に、平清盛と源頼朝の違いについて。
やはり、武家政権としての完成度の違いがあると思う。
頼朝は、関東の鎌倉を本拠地として、鎌倉幕府という政治機構を完成させた。
一方の清盛は、恐らく福原を本拠地として、幕府を作ろうとしたのかもしれないけど、それは叶わなかった。
もちろん、当時、幕府という単語はなかったはずだけど。

また、経済については、平清盛の方が優れていたように思う。
博多と福原の2つの港を整備し、厳島神社を築いて、日宋貿易を盛んにしたことは評価できるんじゃないかと。
例えば、内需が行き詰っていた日本にとって、宋との貿易は、日本に一定の効果をもたらせたらしい。
また、宋銭というお金を流通させたことは、当時の日本では、すごく画期的だったとか。

それじゃー、源頼朝(鎌倉幕府)が貿易に関心がなかったかというとそうでもなくて、鎮西奉行を設置して、引き続き日宋貿易を行っているのね。
その意味では、創業者・平清盛、後継者・源頼朝となるんだろうけど、僕の中では、創業者である平清盛に軍配を上げたいと思っている。

今回はこの辺で。

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