方丈記に、似た運命

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鴨一族について

今回は、鴨一族について。

鴨一族の初代ご先祖様は、賀茂建角身命ということらしい。
これ、「かもたけつぬみのみこと」と読むらしい。
うーん、絶対に読めないなー。
ちなみに、賀茂建角身命は、日本神話に出てくる神様のひとり。

で、日本書紀によると、賀茂建角身命は八咫烏となって(変身して)、神武天皇の道案内をしたとか。
で、その功績によって、賀茂建角身命の子孫は、葛城国造になったらしい。

次に、鴨一族で有名な人物は賀茂忠行。
この方、正直、僕は知らなかったけど陰陽師。
昔、野村萬斎主演の陰陽師という映画が流行った。
あの陰陽師。
野村萬斎の役は、陰陽師・安倍晴明だった。
覚えていますか?
まー、僕は、この映画、見ていないけど。。。
で、この安倍晴明の師匠が賀茂忠行だった。
意外と安倍晴明と鴨一族は、接点があるんだね。

次に、鴨一族で有名な人物は慶滋保胤。
実は、上に書いた賀茂忠行の次男。
ちなみに、長男は賀茂保憲。
賀茂忠行は、長男の賀茂保憲と安倍晴明に陰陽道を伝授し、次男の慶滋保胤には紀伝道を伝授している。

紀伝道というのは、文学のことらしい。
おそらく、文学への造詣が深かったのだろう。
そして、池亭記という作品を残す。
そして、この作品が方丈記のもとになる。
本当にもとにしたかどうかは、長明さんに聞かないと分からないけど。。。

で、その後、どういういきさつがあったかは分からないけど、鴨一族は、下鴨神社の禰宜を務めるようになる。
賀茂忠行とはまた別の系統の鴨一族が、下鴨神社の禰宜を務めたのかもしれないけど。
それで、調べた範囲だと、この頃の鴨一族は、3つの家に分かれていたらしい。
それが、禰宜家、氏人家、祝家の3つ。
で、下鴨神社の正禰宜惣官は、禰宜家の者と決まっていたらしい。

ちなみに、長明さんは、氏人家だったらしい。
鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡にも「鴨社の氏人 菊大夫長明入道」と記載されている。
鴨社というのは、下鴨神社のこと。
氏人というのは、鴨一族の中の「氏人家」ということ。

もし、本当に禰宜家の者しか正禰宜惣官になれないなら、長明さんは氏人家なので正禰宜惣官にはなれないことになる。
でも、長明さんの父・長継は、下鴨神社の正禰宜惣官になっている。
どういうことなのか。。。

それで、鴨一族の家系について調べてみた。
すると、父・長継は、禰宜家の鴨祐直の猶子になっていることが分かった。
といっても、父・長継と鴨祐直は、母親違いの兄弟みたいだけど。
このあたりは、兄・祐直が若くして亡くなったために、弟・長継が跡を継いだという話だったような。。。
ついでに書くと、父・長継の父である季継(長明の祖父)も禰宜家に猶子として入っている。

・一応だけど、これが推定家系図。
・名前の上の数字は、下鴨神社の正禰宜惣官になった順番
・薄緑色で表示されている人物は禰宜家の人物

で、これを見ると、惟長と季長の家系が交代で正禰宜惣官になっている。
で、季長の家系は、季継、長継ともに猶子として迎えられている。
まー、偶然なのか、たまたまなのかは分からないけど。
ということは、長明さんも(あるいは長守)、祐兼の猶子になっていれば、正禰宜惣官になるチャンスはあったのかもしれない。
でも、祐兼の猶子になったとしても、ならなかったとしても、正禰宜惣官になれないかもしれない。
まー、どうなるかは分からない。

それで、僕の勝手な推測。
もしかしたら、父・長継は、子どもたちが神職の道から外れることも予想していたのではないか。
予想というか想定というか。
つまり、どう転んでも大丈夫なように、教育をしたのではないか。

長明さんは、7歳にして従五下の位をもらい、貴族の仲間入りをしている。
どこかでも書いたけど、これは、年齢的にもだいぶ若い。
あと、父・長継の裏工作もあったかもしれない。
ただ、兄を差し置いて、弟が官位を授けられるということは、長明さんの方が優秀だったのかもしれない。
あるいは、兄の方が、母親の身分が低いとかがあったのか。

ちなみに、兄・長守については、あまり記録がない。
ネットで調べた範囲では、長明さんの作品の一つ・無名抄の中に、兄・長守の和歌があった。
どうも、自虐的に自分の不遇を嘆いた和歌だったらしい。
分からないけど、父・長継の死は、兄・長守にも不幸をもたらしていたのかもしれない。

ところが、それを聞いた12歳ぐらい女の子がダメ出しをしてきたんだとか。
その和歌では、自虐になっていないと。
で、兄・長守は、まさか12歳の女の子にダメ出しをされるとは思っていなかったし、確かにその通りだなと思ったので、「うーん、やられた」と返す言葉がなかった。

・・・といった話があるのね。

兄・長守は、あまり才能がなかったのかもしれない。

話を戻して、父・長継は、長明さんのことを見どころがある奴と期待していたように思う。
それで、父・長継も、何とか長明さんに神職の道へ進んで欲しいと思っていたのではないか。
ところが、思ったよりも早くに、自分が亡くなることになってしまった。
しかも、父・長継は、長明の後見人となるような人物を用意することもできなかった。
その結果、父・長継の死後、長明さんは一族の中で孤立してしまったのではないか。

しかも、長明さんは、出世の道は断たれたけど、才能だけはあった。
だから、和歌や音楽など自分の才能を発揮できる分野に、走ったのではないか。
そして、趣味に走れば走るほど、神職の道が遠のいていったような気がしないでもない。
だからもし、長明さんにこういった才能がなければ、あきらめがついた分だけ、どんなに小さな仕事で他人に使われるような仕事でも、下鴨神社の仕事をしていたかもしれない。

本当とのところは分からないけど。
個人的には、方丈記が、長明さんの不遇の人生のたまものであるなら、この人生で良かったように思う。
ていうか、よくぞ方丈記を書いてくれたって思うぐらいだから。

今回はこの辺で。

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