方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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鴨長明とゆかりの人物①~慶滋保胤

ここからは、鴨長明と縁のある人物を書いていきます。
それで、今回は、慶滋保胤。

慶滋保胤。
「よししげのやすたね」と読む。
平安時代中期の人物。
なので、鴨長明と慶滋保胤には、直接の関係はない。
ただ、間接的には、大いに関係している。

「この慶滋保胤が、何者か?」が気になる。

鴨 → 賀茂 → よししげ → 慶滋

つまり、実は、この方、鴨一族の人物。
長明さんのご先祖様に当たる方。
「賀茂」を「よししげ」と読んだところがミソか。
なかなか、こういう読み方は思いつかない。

慶滋保胤、相当の勉強熱心で文学に強かった。
それで、漢詩や歴史を菅原文時に習った。
この時代で、菅原と言えば、菅原道真が出てくる。
実は、菅原文時、菅原道真の孫だった。
で、祖父同様に、この方も勉強ができた。

当時、こういう漢詩、歴史、文学といった学問を紀伝道と言ったらしい。
ただ、慶滋保胤は、紀伝道だけがすごかったのではなかった。
実は、陰陽道のこともよく勉強していた。

慶滋保胤、お父さんは、賀茂忠行といった。
で、この賀茂忠行は、当時の陰陽道の第一人者だった。

それで、陰陽道と言えば、昔、陰陽師・安倍晴明が流行したことがあった。
いわゆる、陰陽師ブーム。
そう、世間では、「陰陽師=安倍晴明」となっている。

じゃあ、安倍晴明は、誰から陰陽道を伝授されたのかというと、

「賀茂忠行」

だった。

つまり、賀茂忠行は「陰陽師・安倍晴明」の生みの親だったわけ。

それで、この慶滋保胤、信仰心が厚いことでも有名だった。
当時は、浄土信仰がブームだった。
で、慶滋保胤も浄土教を信仰していた。
比叡山の横川で修行をし、後に、藤原道長に対して戒を授けている。
また、自身の死後は、藤原道長がその供養を行っている。

色々書いたけど、慶滋保胤は、陰陽道、紀伝道に詳しかった。
多才な方だったのだろう。
また、浄土教についても精通していた。

慶滋保胤は、こういう人物。

長明さん、「方丈記」を書いた。
この、方丈記、実は、お手本となった作品があるといわれている。
それが・・・

「池亭記」

これ、慶滋保胤の作品。
実際に読んでみると、あー似てるなーって思う。
似てはいるけど、似ているだけ。
たとえば、池亭記の中の言い回しを、方丈記の中に上手に取り入れている。

まー、パクったといえなくもないけど、とても上手にパクっている。
しかも、パクったといっても、池亭記は漢文。
それに対して、方丈記は、和漢混合文。
つまり、そのままパクったわけではなく、漢文を訳して、しかも、長明さんの時代に合うように書き換えている。

分からないけど、クラシックを今のJポップに取り入れるような感じだろうか。
二人が生きた時代の差は、おおよそ200年。
懐かしい古典が、今、蘇る。
といったところだろうか。。。

しかも、池亭記と方丈記は、作品のつくりが同じ。
前半と後半に分けて、前半は当時の平安京の様子、後半は自分のことを書いている。
さらには、二人とも、「家」に関する記述が多い。
二人とも、貧しくて家が建てられず、だいぶ歳を取ってから、小さな家を建てたみたいなことを書いてあった。
また、二人とも、その小さな家での生活は、とても満足であると書いてある。

タイトルの付け方も同じ。
方丈記は、方丈の庵を建てたことが由来となっている。
池亭記は、池のある家を建てたことが由来となっている。

とにかく、池亭記と方丈記は重なる。
しかも、重なるのは、作品だけではない。
生き方も重なる。

二人とも、父の跡を継ぐことが叶わなかった
長明さんは、父と同じ、神官になることを願ったが、叶わなかった。
また、慶滋保胤は、父は、陰陽道の大家だったが、兄と安倍晴明が陰陽道を継いだのが原因か、自分は紀伝道に走った。

そして、二人とも、出世には縁がなかった。
慶滋保胤は、従五位下・大内記。
長明さんは、従五位下。
従五位下なので、一応は、貴族の仲間入りだから、位としてはそんなに低いこともない。
ただ、貴族としては最低ランクだった。

しかも、二人とも、最終的に、出家を選んでいる。
当時は、出家そのものは珍しくはなかったと思う。
ただ、出家の動機は、少しでも穏やかな暮らしを手に入れたい、その一心だったと思う。
二人とも、平安京に生まれ、出世競争をしていたと思う。
で、出世の道が断たれた時に、残された道は、出家しかなかったのだろう。

それで、上で、慶滋保胤は、藤原道長に戒を授けたと書いた。
で、たまたま藤原道長を調べていたら、藤原伊周にぶち当たった。
藤原伊周は、藤原道長のライバルだったけど、最終的に、この方も藤原道長に敗れている。
で、この方の、息子に残した遺言が面白かった。

「人に追従して生きるぐらいなら、出家せよ」

これねー、なんか分かる気がするのね。
当時も、こういう考え方があったのかと思うと、面白いなーって思った。
いつの時代も、他人の支配下に入ってうまく振る舞うか、それを拒否して一人広野を進むかというのがあるのかもしれない。
今でも、他人の下に就くのも、組織の中で生きるのも、やはり難しい。
どこにいっても、小さな政治(争い)はある。

で、最後に、まとめ。
長明さんにとって、慶滋保胤は、尊敬するご先祖様ではなかったのか。
方丈記には、「身衰え、縁欠けて」とある。
そんな長明さんにとって、慶滋保胤は、希望の星ではなかっただろうか。
もし、慶滋保胤がいなければ、長明さんが方丈記を書くこともなかったかもしれない。

今回はこの辺で。

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