方丈記に、似た運命

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鴨長明とゆかりの人物②~源家長

今回は、源家長について。

この方、このブログにもたまーに登場する。
それで、「源」なんてあるから、源氏ということは分かる。
ただ、源頼朝とか源義経とかと同列に扱うと勘違いをしてしまう。

源氏と言っても、色んな源氏がいる。
源頼朝なんかは、清和天皇から始まる清和源氏の一族。
そして、武家。
源家長は、醍醐天皇から始まる醍醐源氏の一族。
で、醍醐源氏は、武家と公家に分かれるんだそう。
少なくとも、源家長は公家で良いと思うけど。。。

源家長は、もともと、後白河法皇の10番目の皇子に仕えていた。
なにげに思ったけど、この時代って、本当に子どもの数が多いよね。
臣籍降下って習ったけど、分かる気がするよ。
ていうか、もう少し計画的に子どもをつくればって思うけど。
時代的に多産多死みたいだし、仕方ないのか。。。

その後、後白河法皇の孫の後鳥羽上皇に仕える。
このことがきっかけで、同じく後鳥羽上皇に仕えていた女性と結婚している。
その後、長明さんと同じく、和歌所寄人に選ばれる。
ちなみに、源家長は事務担当だった。

多分、源家長の最大の功績は、和歌所寄人の事務方として、無事に新古今和歌集を成立させたことだと思う。
Wikipediaによると、後鳥羽上皇が承久の乱に失敗した際に、源家長も官職を捨てたとある。
ただ、後に、長年の功績を評価されて、従四位上の位をもらっている。

僕の中では、源家長の最大の功績は、源家長日記を書いたこと。
なぜか?
当時の重要人物の様子が分かるから。
特に、鴨長明に関する記述は、ようこそ残してくれたと思う。
これがあるおかげで、長明さん人物像がとても理解しやすい。

それで、鴨長明が和歌所寄人として働き出した時の話として、源家長日記には以下のように書いてある。

【原文】
すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。

【訳】
だいたい、この長明という人物は父親を亡くして以来みなし子であって、実家の下鴨神社の仕事もしなければ、人との付き合いもなく、ただ自分の部屋に籠ってばかりでした。
それが、今回、新古今和歌集を作成するにあたって和歌所寄人に選ばれると、歌会にも真面目に参加するし、常に和歌の研究もするなどして、真面目に仕事を行っており、一旦仕事場に入れば外に出ることがなく、昼も夜も関係なく一日中まじめに働きました。

これねー、分からないけどさ、源家長も、長明さんのことは知っていたと思うのね。
で、「本当に、長明さん、仕事できるんだろうか?」って思ったかもしれない。
だって、長明さん、引きこもりのニートだった。
下鴨神社の仕事もさぼりがち。
そのくせ、歌会には参加する。

しかも、和歌所寄人のメンバーがすごい。
長明さんも、和歌の腕前は凄かったけど、他のメンバーもすごかった。
しかも、和歌所寄人のうち、半数以上が藤原俊成の流派の歌人。
ところが、ふたを開けてみると、長明さん、一生懸命に働いた。
源家長も、この点は、見直したかもしれない。

聞くところによると、源家長は、比較的早くに父を亡くしたんだとか。
Wikipedhiaには、「又、同じく親を早くに亡くした鴨長明に同情的に接していたことが知られる。」とある。
そして、比較的早くに父を亡くしたこともあって、出世には縁がなかった。
まー、最終的には、従四位上になっているけど。
で、もしかしたら、そういう境遇が、長明さんと重なっていたかもしれない。
しかも、長明さんは、源長家よりも14歳ほど年上だった。
歳が離れていて、自分と境遇が近い人。
分からないけど、源家長は、長明さんに親近感があったかもしれない。

少し雑談になるけど、実は、藤原俊成・定家の親子も、出世には恵まれなかったらしい。
藤原俊成は、10歳の頃に父を亡くしている。
で、これが大きく影響して、出世はだいぶ遅れている。
長明さんと同じにしてはいけないかもしれないけど、藤原俊成も自分の不遇を嘆く和歌を詠んでいる。
ただ、最終的には、正三位・皇太后宮大夫にまでなったけど。
しかも、享年91才とのことで、大器晩成タイプだったのかもしれない。

また、息子・定家は、幼い頃から病気がちだったという。
しかも、父・俊成が若くして出家したこともあって、出世はだいぶ遅かった。
ただ、その間も、九条家の家司として仕事に励んだという。
ところが、仕えていた九条兼実が源通親によって、失脚してしまう。
そのため、自動的に、定家の出世も停滞してしまうが、最終的には、正二位、権中納言にまでなっている。
しかも、享年80才のとのことで、父と同様に、大器晩成タイプだったと思われる。

こうしてみると、長明さんの周囲には、似たような境遇の人物が多かったように思う。
長明さんの和歌の師匠・俊恵法師も、若い頃に父を失い、仏門に入っている。

ただ、どうだろうか。
似たような境遇であっても、どこかに所属しながら、小さな政治に巻き込まれながらも、最後には出世した人物もいれば、出世はできなくても頑張った人物もいる。
藤原俊成・定家の親子と源通親なんて、同じ和歌所寄人ではあっても、政治的には敵対関係。
しかも、藤原俊成・定家の主君・九条兼実は、源通親によって政治的に敗れている。
つまり、和歌所寄人のみんなだって、政治や権力の渦に巻き込まれながらも、和歌を詠んでいたのだろう。

長明さんは、どうだっただろう。
長明さんも、僕が知らないだけで、ずーっと、下鴨神社内の政治や権力の渦に巻き込まれていたのだろうか。
長明さん、下鴨神社の仕事をしていなかったみたいだけど。
このあたりは、長明さんと他の和歌所寄人たちとの、大きな違いのような気もするけど。。。

源家長は、長明さんのことを、まーまー書いてくれている。

長明さんが、和歌所寄人として一生懸命に働き、それに対して、後鳥羽上皇が褒美を与えようとしたことがあった。
その時なんかは、

後鳥羽上皇としても鴨長明に何か褒美を取らせたいと思っていたところ、ちょうど河合神社の禰宜に欠員ができた。
そこで、後鳥羽上皇は、そこに鴨長明をあてようとした。
周囲の人たちも「河合神社の禰宜は鴨長明で決まりだな」とうわさをし、まだ正式に決定したわけでもないのに、そのうわさが長明さんのもとにも漏れ聞こえてくる。
そのうわさを聞いた長明さんは、涙を流して喜んだ。

なんて書いている。
僕の適当な訳で申し訳ないけど。

しかも、最終的に、横やりが入ったために、長明さんは河合神社の禰宜になることができなかった。
で、後鳥羽上皇も気の毒に思ったのか、長明さんを別の神社の禰宜に推薦しようとする。
それに対して、長明さんは「約束が違う」と言うと、和歌所寄人の職さえも捨ててしまった。
その様子を、源家長は、「長明さん、強情だなー」って書いている。
まー、僕は、分からなくもないけど。。。

その後、長明さんは、大原で出家生活をする。
で、後鳥羽上皇からは戻っておいでと言われるけど、やはり戻ることはなかった。
で、ある日、源家長は、長明さんと会う。
もしかしたら、長明さんを見かけたというレベルかもしれないけど。
で、源家長、「これが、あの長明さんか?」というぐらい痩せていたと書いている。
大原での生活は、苦労をしたのかもしれない。

とにかく、源家長は、こんな風に長明さんのことを書いてくれている。
おかげで、長明さんことがよく分かるから、大変ありがたい。

今回はこの辺で。

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