方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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歴代天皇の話③

前回からの続きです。

◆安徳天皇
安徳天皇ほど、時代の波に飲み込まれ、悲劇的だった天皇はいないと思う。
そもそも、安徳天皇、天皇即位は1歳の時。
歴代天皇の中でも、2番目に若い年齢。

父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の建礼門院徳子。
祖父は、後白河法皇と平清盛。
つまり、朝廷と平家一門の期待を一身に背負っていた。
ところが、最終的には、わずか6歳で亡くなる。
これ、歴代天皇の中でも最年少となる。

安徳天皇が生まれた頃って、世の中が相当荒れていたらしいのね。
しかも、当時、権勢を誇った平家一門は、源氏との戦いに敗れる。
さらに、平家一門は、後白河法皇とも仲たがいをしてしまう。
その結果、平家一門は、安徳天皇と共についに都落ちをする。

落ち目の平家一門にあって、唯一、その正当性を主張できるのが安徳天皇だった。
つまり、平家一門の切り札。
都落ちした平家一門だけど、水島と室山の戦いでは源氏に大勝するも、続く一の谷の戦いでは惨敗をする。
さらに、それに続く屋島の戦いでも、惨敗をしてしまう。
そして、源平の最期の戦いとなったのが壇ノ浦の戦い。

平家物語によると、滅亡を覚悟した平家一門は、船の掃除をはじめる。
そして、二位の尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱き抱えると、安徳天皇が「ばば様、私をどこに連れて行くのですか?」って聞くのね。
で、二位の尼は、「陛下は、前世の行いが良かったために、この世で天皇としてお生まれになりましたが、もはや命運尽きてしまいました」と言う。
続けて「海の底にも都がございます。一緒に参りましょう」と言うと、安徳天皇は、東を向いて一礼すると伊勢神宮にお別れをし、次に極楽浄土のある西に向かって念仏を唱え、二位の尼と共に深い海に身を投げて、その生涯を閉じる。

平家物語によると、平家一門の滅亡の様子を、「平家の赤旗が海に投げ捨てられて漂う様子は、竜田川の水面に吹き飛ばされた紅葉のようであり、空っぽになった平家の船が波風に揺られて行く当てもなく漂う様は、悲しいものがあった。」と書かれてある。

正直、僕なんかは、安徳天皇の最期を思うだけで涙が出そうになる。
しかも、安徳天皇は天皇であっても、二位の尼にとっては可愛い孫。
二位の尼も、まさかこんな最期を迎えるとは思ってもいなかったと思う。

最後に、安徳天皇のエピソードを一つ。
安徳天皇、壇ノ浦の戦いで敗れた後、実は、四国へと落ち延びたという話がある。
そして、土佐国(今の高知県)の横倉山でひっそりと暮らし、23歳で亡くなったそう。
これなどは、当時の人々の願望ではないかと思う。

◆仲恭天皇
仲恭天皇も、知名度の低さは抜群だと思う。
当然、僕も、全く知らなかった。
ただ、調べてみると、どうも系統的には安徳天皇に近いものがあった。

この仲恭天皇、祖父は後鳥羽上皇、父は順徳天皇。
で、この仲恭天皇の悲劇は、祖父・後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたことから始まる。
承久の乱というのは、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を倒そうとした戦いのこと。
結果だけ書くと、後鳥羽上皇の朝廷軍は、幕府軍に惨敗をする。

で、この承久の乱の直前の天皇は、父・順徳天皇だった。
ところが、祖父・後鳥羽上皇が承久の乱を起こすことを決意すると、父・順徳天皇もそれに従うために、天皇の位を仲恭天皇に譲ってしまう。
ちなみに、その時、仲恭天皇は、わずか2歳。

で、承久の乱が失敗すると、祖父・後鳥羽上皇は、隠岐島(今の島根県)に島流しとなる。
父・順徳天皇は、佐渡島(今の新潟県)に島流しとなる。
で、仲恭天皇、全くなーんにもしてないんだけど、天皇の地位から追放される。
ちなみに、天皇としての在位期間は78日。
歴代天皇の中では、最短記録らしい。

結局、仲恭天皇は、2歳で天皇に即位、在位期間78日、そして、15歳で亡くなる。
仲恭天皇本人も、まさか、こんな人生は望んでいなかったと思うけど。。。

◆光厳天皇
いよいよ天皇シリーズの最後の天皇。
ラスボスに相応しい注目すべき天皇だと思う。

まず、この光厳天皇も、知名度が低い。
当然だけど、僕も知らなかった。
ていうか、今、書いていて思ったけど、知名度の高い天皇なんてそんなにいないんだけど。

それで、この光厳天皇、南北朝時代の天皇。
だけど、歴代天皇にはカウントされていない。
ということは、天皇ではないってなる。
うーん、一体、どっちなんだ?

鎌倉時代の末期。
天皇は、持明院統と大覚寺統の2つの派があって、交代交替で天皇を出していた。
で、大覚寺統の後醍醐天皇が天皇になったことで、事件が起きる。
後醍醐天皇、なんと、鎌倉幕府を倒そうとする。
しかし、失敗する。
そして、後醍醐天皇、失脚。

その結果、後醍醐天皇の次に天皇になったのが、持明院統の光厳天皇だった。
あれっ、光厳天皇、ちゃんと天皇になっているじゃない。。。
そう、ここまでは、問題なかった。

ところが、ここで、再び、事件発生。
なんと、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を倒してしまった。
で、後醍醐天皇、その実績を盾にして、再び、天皇となる。

その結果、光厳天皇は、天皇の地位から追放されてしまう。
しかも、光厳天皇は、後醍醐天皇から「お前を天皇として認めることはできないが、特別に上皇の地位は認める」なんて言われて天皇だったことすら否定される。

その後、後醍醐天皇は、建武の新政を行う。
ところが、この建武の新政は大失敗。
しかも、後醍醐天皇は、足利尊氏との戦いに敗れ、奈良の吉野に逃亡する。
で、足利尊氏が都に入るも、尊氏には政権の正統性を主張するお墨付きがなかった。

それで、再び、ここで歴史の表舞台に登場するのが光厳上皇となる。
足利尊氏は、光厳上皇を擁立すると、光厳上皇によって、その弟・光明天皇を天皇にすることに成功する。
そして、足利尊氏は、その光明天皇から征夷大将軍に任命されて、室町幕府を開く。

ここに、大覚寺統の後醍醐天皇を頂点とする南朝と、持明院統の光明天皇を頂点とする北朝の2つの朝廷ができてしまう。
つまり、日本国に、天皇と朝廷がそれぞれ2つという、おかしな展開が起きてしまう。

その後、室町幕府の中で、将軍・足利尊氏と弟・足利直義の間で争いが起きる。
で、敗れた直義は、逃げるでもなく、北朝に匿ってもらうでもなく、なんと南朝に降伏してしまう。
しかも、南朝方に逃げた直義を倒すために、今度は、尊氏までも南朝に降伏してしまう。
つまり、北朝方であり、室町幕府のトップ2人が、こともあろうに2人そろって南朝に降伏。

その結果、ほとんど自動的に、北朝も南朝へ降伏する。
まー、そうなると思ったけど。

そして、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇の3人は、南朝に捕まってしまう。
最終的に、全員解放されるけど、こうして見ると、光厳天皇ってなんか完全に時代の波に飲み込まれた感がある。
なんか、都合よく利用されたというか、うまく担がれたというか。
最終的に、京都のお寺で僧侶として暮らし、54歳で亡くなる。

だいぶ、僕の独断と偏見で書いたけど、今回はこの辺で。

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