方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。

【原文】
ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。

【訳】
誰も彼もが皆が、浮雲のように心が落ち着かず、この先どうなるんだろうと不安に思っている。昔からここに住んでいた者は、新都建設のために土地を取り上げられて悲嘆し、新しく来た者は家を建てる苦労にため息を漏らす。通りを見れば、牛車に乗るはずの貴族たちが武士のように馬に乗り、衣冠や布衣を身に付けるべきであるにもかかわらず、直垂を付けている。平安京のときの貴族の雅さは薄れて、鄙びた田舎の武士のように味気ない。
こういった変化は、世の中が乱れる前触れだと聞いたことがあったが、まさにその通りで、日に日に世の中は騒がしくなり、人々の心は落ち着きを失っていった。そして、とうとう、人々の心配は現実になった。その年の冬、天皇は再び平安京へとお戻りなってしまわれたのだ。ところで、今回の遷都のために取り壊された平安京の家々は、どうなってしまったのか。それは、全てが元通りになったわけではなかった。

【わがまま解釈】
前回は、長明さんが福原の都を訪れた話だった。
で、土地が狭いとか、波音がうるさいとか、風が強いとか、そんなことが書かれてあった。

今回は、まず、みんなの心が浮雲の様に落ち着かず、福原京がこの先どうなるんだろうと不安がっていると書かれてある。
そもそも、何の準備もなく、突然の遷都だった。
当然、下準備とか根回しとか一切なし。
そりゃー、みんな不安になると思うよ。

しかも、よーく読んでみたら、昔から、福原京あたりに住んでいた者は、福原京建設のために土地を取り上げられたって書いてある。
土地買収の話もなく、いきなり土地を召し上げたんでしょうか。
ていうか、それぐらい最初っからしとけよって思うけど。
そんなんだから、平家は支持を失うんだよ。

しかも、新しく来た者は、家を建てる苦労のためにため息を漏らすとある。
解体した家がいつ福原京に到着するかも分からないし、家を運ぶのも苦労する。
さらに、もともといた人たちを追い出して家を建てるから、本当にそこに家を建てていいのかも分からない。
とてもじゃないけど、「家ができるのが楽しみー」とはならないだろうね。

通りでは、貴族たちが、馬に乗って直垂を付けているらしい。
どこかで、貴族風ではなく武家風が好まれるようになったとあるけど、それの最たる例かもしれない。
ただ、福原京は、通りが整備されていないとのことった。
平家物語だと、車(牛車か)での移動は、できないとも書いてあった。
道幅が狭く、凸凹した道だとしたら、馬じゃないと移動は大変かもしれない。

で、こういった現象は、世の中が乱れる前ぶれだと書いてあるけど、いや、もうすでに乱れてますやん。
十分、乱れてますって。
それで、「平安京はすでに荒廃し、福原京はいまだ完成していない」という状況になる。
そして、福原京は完成することもなく、都は、平安京に戻ることになる。
結局、福原京は、わずか半年だけの幻の都として終わる。

でも、戻ったところで、平安京も荒廃しているわけ。
どうするわけ?
あー、もう、何がしたかったのか分からない。

・福原京建設のために、どれだけ費用と労力がかかったか。
・平安京に戻るために、どれだけ費用と労力がかかったか。
・今回の騒動で、どれだけ人々を混乱させたか。

このあたり、平家はどう思っているんだろうか。

ただ、平安還都も、平清盛は、激しく反対したらしい。
なんせ、福原遷都の張本人。
あっさり、平安京に戻れるはずがなかった。

方丈記では、平安還都については、特にコメントはない。
一方、平家物語だと、後白河法皇、高倉上皇が還都を主張し、平安京周辺の寺社勢力も還都を希望したことで、清盛もついに還都を決断したとある。
で、この還都も、また突然だった。
しかも、12月。

で、慌てて平安京に戻ったは良いけど、家がなかった。
それで、平安京の郊外にある神社や寺を住みかとする者がいたぐらいだったそう。
しかも、福原京に建てた建物は、そのまま放置したとか。

玉葉によると、還都の理由について、平家方の富士川の戦いの敗戦を挙げている。
清盛としては、この敗戦で危機感を覚えたのではないだろうか。
この敗戦を機に、反平家勢力が立ち上がると、打つ手がないと思ったのかもしれない。
特に、畿内周辺の寺社勢力は、以仁王の反乱でも分かるように反平家だったから、先手を打つためにも還都が必要だったのではないか。

玉葉によると、清盛と宗盛(清盛の後の平家の総帥)との間で、大激論が交わされたとか。
いつもは温厚な宗盛が、父・清盛と激しく言い争ったことで、周囲は驚いたらしい。
清盛としても、富士川の戦いの敗戦、後白河法皇・高倉天皇の還都希望、宗盛との論争などで、平安京に戻らざるを得ないと内心覚悟したんだと思う。
逆に言うと、福原京の建設、日宋貿易の推進は、あきらめるしかないという境地に達したのではないか。

平安京に戻った平家一門は、すぐさま反撃に出る。
近江源氏を打ち破り、奈良においても東大寺や興福寺を焼き討ちしている。
それで、一旦、畿内周辺は落ち着きを見せる。
さすがは清盛といったところだろうか。

ところが、このタイミングで平家に不運がやってくる。
頼みの綱だった高倉上皇が亡くなってしまう。
一応書くと、高倉上皇は、妻が建礼門院(平時子)で、建礼門院は平清盛の娘。
ということは、高倉上皇にとって、平清盛は義理の父。
しかも、母は建春門院で、建春門院は平清盛の妻・二位の尼の妹。

つまり、高倉上皇は、平清盛ときわめて近い関係のため、高倉上皇が朝廷トップにいてくれると清盛としても、とても都合が良かったのね。
平たく言えば、高倉上皇がいる限り、清盛や平家は、自分たちの正当性を主張することができた。
しかし、その高倉天皇が病に倒れて、そのまま亡くなってしまう。

で、この時、高倉天皇の遺言として、平宗盛が畿内惣官の地位に就いている。
これは、平宗盛に畿内周辺の軍事権を与えるということで、平家の軍事的基盤の強化につながった。
そして、平家一門は、一気に関東へ攻め込む準備を整える。

ところが、ここで、まさかの平清盛の病死。
多分、多分だけど、一番死んだらダメなタイミングじゃない?
分からないけど。。。
まー、武田信玄とか袁紹本初とか、間の悪いタイミングで亡くなる人ってたまーにいるけど。
しかも、平家って、清盛の個人的才覚でもっていたような政権じゃない?
実際、平家一門は、清盛亡き後、あっさりと滅亡するし。

いや、これは言い過ぎかもしれない。
一応書くと、水島の戦い、室山の戦いでは、平家が源氏に大勝している。
特に、水島の戦いは、会稽の恥を注ぐくらいの大勝利だったとか。

それで、平家物語によると、清盛は「自分が死んだ後、供養などいらぬ。寺を建てる必要もない。それよりも、賊を倒し、頼朝の首を我が墓前に供えよ。それこそが自分への供養と思え」と遺言したそう。
平治の乱で、平清盛は、源義朝を倒した。
そして、清盛は、源義朝の子・頼朝を捕まえると、面会をする。
清盛は、頼朝を殺すこともできたけど、その命を助け、伊豆への島流しで許した。

その二十年後、その頼朝によって平家が滅ぼされるとは、誰も予想できなかっただろう。
清盛は、頼朝を殺さなかったことを後悔したのだろうか。
遺言が本当なら、平清盛の源頼朝に対する憎悪は、相当なものだったと思うけど。

今回はこの辺で。

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