方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―


フロイト心理学①

今回は、フロイト心理学について。

僕は、フロイト、あるいは、フロイト心理学のことをよく知らない。
いつも書くけど、今回もテキトーに書きます。
その内、えらい先生から怒られるかもしれないなー。。。

それで、今回は、次の三つのポイントから書きます。

●無意識の発見
●夢分析
●科学的アプローチ

●無意識の発見
僕たちは、ふだん、よく無意識、無意識と口にしたりする。
この無意、心理学の世界に導入したのはフロイトなんだそう。
それで、一応、無意識の発見と書いたけど、無意識そのものはすでに存在していた。
あるいは、概念としてはあったよう。

ただ、フロイトが凄いのは、その無意識を科学的に解明しようとしたことにあると思う。
そして、心の動きを研究した。
つまり、科学的に、みんなが分かる形で心を研究をした。

それで、僕たちが、無意識、無意識という場合。
「思わず、体が勝手に反応した」という意味合いで使っている。
で、フロイト自身は、無意識について次のように考えている。

人間の意識は、意識、前意識、無意識の三つの領域が存在する。

意識・・・・自分でちゃんと自覚できる心の領域。
      意識の領域にある内容は、ちゃんと自分で認識できる。
前意識・・・意識と無意識をつなぐ領域で、注意を傾ければ自覚することが可能な心の領域。
      例えば、無意識の領域にある内容も、前意識までのぼってくれば、注意を傾けることで自覚することも可能となる。
無意識・・・自分では気が付かず、自覚することができない心の領域。
      いわゆる意識が届かない領域。

次に、人間の心を自我という側面から考えると、自我、超自我、イドの三つの領域が存在する。

自我・・・・もともとは、自我=意識という考え方もあったようですが、現在では、意識・前意識を指すとのこと。
      ルールをつかさどる超自我と欲望をつかさどるイドとの間で、心のバランスを保つ調整役を担う。
超自我・・・自我とイドにかかる領域で、意識と無意識(あるいは前意識も含めて)の両方に存在する。
      道徳、倫理、良心などが詰まっている部分。
イド・・・・無意識に相当する領域。
      感情、欲求、衝動などの本能的なエネルギーが詰まっている部分。
      エスと表現される場合もある。

それで、意識・前意識・無意識と、自我・超自我・イドの関係を図で書くと、次のようになる。

※図はWikipediaから。

これを見ると、意識と自我の関係性が分かりやすい。
ただ、これは、あくまでも、フロイトの理解による心の構造。
だから、もしかしたら、ユングやアドラーは、また別の理解だったかもしれない。
あと、この絵の面白いところは、意識や自我を氷山に例えているところだと思う。

例えば、イド。
ここには、感情、欲求、衝動などの本能的なエネルギーが詰まっている。
そして、その領域は無意識となる。
つまり、欲望の源泉が、無意識に存在しているということなのだろう。

次に、超自我。
ここには、モラルが詰まっている。
そして、その領域は、意識、前意識、無意識にまたがっている。
意識の中でモラルが働くというのは分かるけど、前意識や無意識の中であっても、モラルが働くのか。
これについては、小さい頃から刷り込まれたルールは、自然と守るようになると言ったところだろうか。
例えば、靴をそろえる、常に部屋を掃除するとかって、考えなくても自然と体が動く人っている。
こういうことだろう。

最後に自我。
自我は、超自我とイドの調整役となる。
つまり、欲望とモラルの狭間で、バランスを取りながら、全体として行動を決定することになる。

例えば、イドが超自我よりも強い場合。
欲望がモラルに打ち勝つことになる。
すると、本来、無意識の領域に存在しているイドが、すーっと意識の領域に浮かび上がってしまい、欲望が出てしまうことになる。

●夢分析
無意識がよく表現されるものとして、夢がある。
念のために書くけど、希望という意味の夢ではない。
寝ている時に見るやつのことね。

僕の場合だけど、あまり良い夢を見ない。
たいていの場合、追い詰められるとか、どこかから落ちるとか、この前なんかは、パトカーが家の前に止まって、何事かと思って玄関を出たら逮捕される夢を見た。

昔、田村正和が出ていたドラマに、冬の雲というのがあった。
僕は、ドラマは知らないけど、ドラマの歌だけはなぜか知っていた。
それは、「苦しき夢」というタイトル。

夕べの夢は~ 苦しき夢~

という歌。
ほとんどの人は知らないと思うけど。
そう、僕の夢は、いつもこんな感じ。

で、話を戻して、フロイトは、夢というのは、普段、無意識の領域で抑圧されている願望が出たものと考えている。
つまり、「夢=願望」の表れだと。
特に、「夢=性的な願望の表れ」だと主張したとか。

だとすると、僕が、追い詰められる夢を見たり、崖から落ちる夢を見るのも、全て願望なのか。
ということを考えると、少し、いや、だいぶ違うように思うけど。
僕の場合、単に、日常の不安が夢の中でも表れているだけだと思うけど。

ちなみに、当時、精神分野で夢分析は、ちょっとしたブームだったらしい。
但し、アドラーは、夢分析にはあまり興味を示さなかったようである。
また、ユングは、フロイトと同じく夢分析を行っている。
しかし、ユングの夢分析は、フロイトのものとは異なるようである。

フロイトは、「夢=性的な願望の表れ」だと主張したらしいけど、ユングは、自分の研究からそれだけに限定するのはおかしいと考えていたんだとか。
どうも、フロイトは、人間の無意識を性的なものに結びつけてしまう傾向があったらしい。
ちなみに、ユングは、「夢=集合的無意識の表れ」だと言っている。
まー、どちらが正しいのかは分からないけど。
両方正しいかもしれないし、両方間違っているのかもしれないけど。

今回はこの辺で。

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