方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。

【原文】
又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。

【訳】
また、同じ年の6月頃、突然、遷都が行われた。全くもって想定外の出来事だった。そもそもの都がどのように成立したかというと、嵯峨天皇の時代に今の都が新しい都となり、それからというものすでに数百年年以上もこの地が都であったわけである。だとすれば、よほどの理由がなければ、そう簡単に都を移転するということはできないはずだ。人々は、今回の遷都に不安を感じ、(大丈夫だろうかと)心配もしたが、これは当然といえば当然だった。

【わがまま解釈】
今回からは福原遷都のお話。
冒頭に、「又おなじ年の六月の頃」とある。
これは(前回の)治承の竜巻と同じ年ということですね。

長明さんは、それは突然の遷都で、完全に想定外だった書いている。
遷都ということは、首都移転ということ。
ということは、国家の一大プロジェクト。
長明さん、本当に知らなかったのだろうか?

だって、長明さんは、下鴨神社の人間ですよ。
言うなれば、下鴨神社は平安京を守護する守り神。
それはないような気もするけど。。。
そもそも、遷都って突然するようなもんじゃないし。

というわけで、僕も調べてみた。
すると、どうも本当に知らなかったらしい。
福原遷都は、本当に極秘だったらしい。
何の準備も根回しもないままに、遷都が行われたとか。
うーん、よく分からない。。。

1180年5月末に、平家一門は福原に行くことを決定していたらしいのね。
ただ、この時点では、「福原に行く」としか言われていなかった。
それで、何のために行くのかは、誰も知らなかったらしい。
もっとも、一部で、福原遷都は噂にはなっていたらしいけど。

そして、平氏一門は6月2日に福原に入る。
だけど、この時点でもまだ入っただけ。
そして、6月11日に平頼盛の屋敷で福原遷都が発表される。
余談だけど、この平頼盛は平清盛の弟で、平家滅亡後も生き残った数少ない平家の武将なんだとか。

この遷都、反対する者がとても多かった。
平家一門の者ですら、反対をしていた。
当然、朝廷に仕える者たちも反対だった。
でも、平清盛は、遷都を断行した。
まさに、その時、歴史は動いたって奴ね。

それで、僕も、平清盛が、福原遷都をした理由を考えてみた。
まー、ネットで浅く狭く調べただけだけど。。。
で、遷都の理由は、大きく次の三つだろうと思われる。

◆寺社勢力との対立の回避
◆日宋貿易の拠点整備
◆制度改革

◆寺社勢力との対立の回避
京都、奈良は、昔から寺社勢力が強い地域だった。
例えば、延暦寺、興福寺、園城寺など。
そして、寺社勢力は、いつも時の権力者に反抗的な態度を取っていた。
実際、朝廷も、これらの勢力を抑えるために北面武士を設置している。
平家物語にも、白河法皇だったか、延暦寺の僧兵が思い通りにならないとあったと思う。

全然時代が違うけど、戦国時代、延暦寺は織田信長に焼き討ちされている。
まー、どうもそこまでひどいものではなかったらしいけど。
また、本願寺は、信長包囲網に参加して、織田信長を苦しめている。
いつの時代も、寺社勢力というのは、敵に回すと怖いのかもしれない。

それで、福原遷都の直前には、以仁王の乱があった。
これは、平家に不満を持つ以仁王と源頼政が、平家打倒を目指して起こした反乱。
しかも、この反乱には、園城寺と興福寺も加わっていた。

反乱自体は、すぐに鎮められた。
ただ、清盛としては、寺社勢力を何とかしないといけないと思ったのではないか。
これ以上、権力者が寺社勢力に左右されるようではいけないと。

◆日宋貿易の拠点整備
日宋貿易は平忠盛(平清盛の父)の時代から注目をされていた。
それで、清盛はこれをもっと国家政策として推進しようとしていたらしいのね。
ところで、貿易をするために必要なものと言えば、やはり港。
港なくして貿易はできない。

それで、まず、清盛が整備したのが、博多だった。
港をつくり、町づくりも行っている。
Wikipediaを読むと、博多は、日本で初めての人工港ってある。
しかも、博多の町は、多数の中国人(宋人)であふれ、国際都市の様相だったとか。

次にしたのが厳島神社の整備。
日宋貿易の強化、瀬戸内海の支配を目指す清盛。
そして、厳島神社の神主として名声を高めたい佐伯氏。
この二人が結びつきを深めていった結果、清盛は、厳島神社の大規模改修を行い、厳島神社を大切に扱う。
また、佐伯氏も、平家の繁栄のために一役買うことになる。

さらに、清盛は、福原京に大輪田泊という港をつくった。
福原は、もともと平家一門の別荘としての性格があり、出家後の清盛が生活をした土地でもある。
これによって、宋の船が大阪湾に入ることが可能となった。
清盛としては、日宋貿易の強化、瀬戸内海の支配をするめに、博多、厳島、福原と拠点を整備しつつ、同時に西国の国人衆を取り込んでいったのだと思う。

最終的に、平家一門は滅亡するけど、それでも、平家一門は、彦島、屋島、福原と、やはりここでも瀬戸内海の支配を重視している。
平家一門にとって、経済的にも、軍事的にも、瀬戸内海の支配こそが生命線だったように思う。
何というか、農業だけでなく、貿易にも力を入れようとする姿が見える。

◆制度改革
源頼朝は、鎌倉で幕府を開いた。
もちろん、後世の人たちが鎌倉幕府と言っているだけで、頼朝自身は「鎌倉幕府」という認識はなかったと思うけど。
それで、実は、平清盛も福原で幕府を開こうと思っていたらしい。
まー、あくまでも説だけど。

分からないけど、清盛としては、平安京から政治的機能をもつ部分を分離して、その機能を福原に移そうとしたのではないか。
しかも、福原に港を設置することで、貿易、経済、商業の中心都市にしようとしたのではないか。
江戸時代で言うところの、江戸みたいな都市を作ろうとしたのではないだろうか。
テキトーに書いたけど。。。

最後に、長明さんは、方丈記の中で、嵯峨天皇の時代に平安京が都となったと書いてある。
でも、ふつーは、平安京が都になったのは桓武天皇の時代のはず。
いわゆる「鳴くよ(794)ウグイス平安京」ってやつ。

それで、調べてみたら、確かに、桓武天皇は、794年に都を平安京に定めている。
ところが、次の天皇となる平城天皇が、都を平城京に戻していた。
そして、さらに、次の天皇となる嵯峨天皇が、再度、都を平安京に戻している。
このあたり、だいぶ端折って書いたけど、ややこしいなー。
平城天皇と嵯峨天皇の対立、薬子の変とか、丁寧に書けば良かったんだろうけど。。。

今回はこの辺で。

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