方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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いざ鎌倉へ

今回は、長明さんが鎌倉に行った時の話。

長明さん、引きこもってばかりのイメージがある。
おそらく、源家長日記のイメージが強いのかもしれない。

ところが、実際は、色々と出かけている。
でないと、方丈記の五大災厄の部分は書けなかっただろう。
福原にも行った。
熊野・伊勢方面にも旅行している。
方丈の庵で生活していた頃も、色々と歩き回ったことを書いている。

で、長明さん、60歳前になって、鎌倉にも行った。
正直、鎌倉は遠い。
しかも、当然、歩いて行っている。
足腰が強いというか、身体は丈夫だったと思われる。

で、どうして、鎌倉に行ったのか?
それは、源実朝に面会するためだった。
源実朝と言えば、鎌倉幕府三代将軍で鎌倉幕府の頂点だった人物。
後鳥羽上皇といい、源実朝といい、長明さんはトップの人間に気に入られる何かがあるのか。

当時、源実朝は、和歌の師匠を求めていた。
ただ、源実朝には、藤原定家が和歌の師匠としていた。
藤原定家と言えば、当時の和歌のスーパースター。
そして、和歌所寄人の時の長明さんの同僚でもあった。

だから、鎌倉に行ったところで、無駄足になることも十分予想された。
しかし、長明さん、人生の最期にひと花咲かせたいとか、冥途のいい土産話になるとか、そんなことを思ったのかもしれない。

しかも、今回の件も、推薦を受けてのことだった。
源実朝に、鴨長明を推薦したのは、飛鳥井雅経だった。

飛鳥井雅経。
歳は、長明さんより15歳下。
官位は、従三位なので、長明さんよりもはるかに高い。
新古今和歌集に選ばれた長明さんの和歌10首のうち、半分(5首)は、飛鳥井雅経が選んでいる。
それで、源実朝には、すでに、藤原定家が和歌の師匠としていた。
にもかかわらず、飛鳥井雅経は、源実朝に、和歌の師匠として長明さんを推薦している。

飛鳥井雅経は、どうしても鴨長明を紹介したかったのかもしれない。
源実朝も、鴨長明を面白い人物と思い、どうしても会いたかったのかもしれない。
それで、長明さんと飛鳥井雅経は、二人で鎌倉へと向かう。
まー、一緒に行ったかは分からないけど。
もしかしたら、長明さん一人で行ったかもしれないけど。。。

で、この鎌倉に行った話だけど、これも、方丈記には書かれていない。
全く書かれていない。
書けよって思うけど。
でも、書いていない。

長明さんの性格からしたら、僕は、色々と書きたがるはずだと思っている。
ただ、長明さんの鎌倉の話は、実は、吾妻鏡に記録がある。

吾妻鏡。
これ、鎌倉幕府の歴史書。
僕も、名前は聞いたことあったけど、中身は知らなかった。
鎌倉幕府の正史となる書物で、基本的には、鎌倉幕府が正義として書かれているんだそう。
細かく見ると、源一族よりも北条一族の正義を重んじているとか。
で、専門家によると、ところどころ間違いがあるらしい。

吾妻鏡の中で、長明さんと源実朝の面会の場面は短い。
それでも、次のようなくだりがある。

【原文】
鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、依雅経朝臣之挙、此問下向。
奉謁将軍家、及度々云々。
市今日当子幕下将軍御忌日、参彼法花堂。
念論読経之問、懐旧之、涙頻相催、註一首和歌於堂柱。
草モ木モ廃シ秋ノ霜消テ空シキ苔ヲ払ウ山風

【訳】
下鴨神社の氏人家で従五位下の官位である長明なる者が、飛鳥井雅経の推挙により、鎌倉に下向してきた。
長明は、実朝公と何度かお会いした。
そして、長明は、鎌倉幕府の初代将軍であった源頼朝の命日に法花堂(源頼朝を祭る施設)に参り、頼朝公を忍ぶ和歌を一首、法花堂の柱に刻んだ。

草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払ふ山風

(まさに草木までもがなびくぐらいの権勢を誇った頼朝公も、秋の霜のように消えてしまい、今はただ墓の苔を払うかのように空しい風が吹いている)

うーん、原文って漢文だったのか。。。
正直、読めないし、読む気もしない。

ただ、長明さん、源実朝と何回か会ったとある。
でもね、源実朝って将軍なのね。
会おうと思っても、やすやすと会える立場の人間じゃない。
きっと話が盛り上がったのだろう。
しかも、源頼朝のお墓参りまでしている。
そこで、和歌も詠んでいる。

もしかしたら、源実朝は、父・頼朝のことについても、色々と長明さんと話をしたのではないか。

・都での父・頼朝の評判はどうか
・父・頼朝の和歌をどう思うか
・鎌倉は好きか

あるいは、後鳥羽上皇のことも話したかもしれない。

で、長明さん、最終的に、源実朝の和歌の師匠になることは叶わなかった。
いや、最初から、そう思っていたかもしれない。
で、それならそれでかまわないと思っていたのではないか。

今回の鎌倉に来たことで、自分の和歌の技術は全て伝えた。
そう思ったのではないか。
後は、私が申し上げたことをしっかり心に刻んでおいてくれたら、それでいい。

一般的には、源実朝の和歌は、万葉調だと言われている。
それは、藤原定家から万葉集を贈られており、その影響ではないかと言われている。
ただ、必ずしも、全部が全部、万葉調ではないらしい。

源実朝の作品に「金槐和歌集」というのがある。
で、その中に、次のような和歌がある。

【原文】
君が代も 我が世もつきじ 石川や 瀬見の小川の 絶えじと思えば

【訳】
後鳥羽上皇の治世も、私の治世も、尽きることはないでしょう。
石川の瀬見の小川の流れが絶えないように。

なんと、源実朝までもが長明さんの「瀬見の小川」を使っていた。
源実朝は、良いものはどんどん取り入れてく、そんな人物だったのかもしれない。
長明さんも、よくぞ「瀬見の小川」を使ってくれたと、内心、喜んだかもしれない。

今回はこの辺で。

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