方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、

【原文】
その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなるあどなしごとをして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形なく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりとおぼえて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし。

【訳】
このような状況下で、ある武士に6、7歳ぐらいの一人息子がいた。その子は屋根のついた小さい家を作り、子どもがよくやるようなお家遊びをしていたが、突然、その家が崩れ去るとその下敷きになり、ぺしゃんこに押し潰された。そして、両目は3センチほど飛び出している。両親は、その子を抱きかかえて声を張り上げて泣いた。私は、その様子を胸が締め付けられる思いで見ていた。子どもを失うという悲しみは、いかつい武者のような人でも恥も外聞も関係なく泣くものなのだと知った。実に気の毒であり、その悲しみは親として当然であると思った。

【わがまま解釈】
今回も、元暦の地震のお話。
ただ、方丈記って、鎌倉時代初期の作品。
当然、色んな人が書き写して読んでいる。
つまり、伝言ゲーム。

それで、書き写していると、大まかに系統が生まれてくる。
それで、今回の話は、同じ方丈記でも、ある系統にはあるけど、別の系統にはないというお話。
そうなると、「もともとは、長明さんが書いた話なのか?」というのが気になる。

ただ、正直、それは分からない。
長明さんは書いていたけど、誰かが書き写していく中で、写し損ねたのかもしれない。
逆に、長明さんは書いていないけど、誰かが書き写していく中で、話を加えたのかもしれない。

話を戻して、今回のお話は、今回の地震での悲しいお話。

ある武士に、六歳か七歳かの子どもがいたらしい。
そして、その子は、がれきの家の中で、小さい子どもがよくやるようなままごと遊び、秘密基地遊びみたいなことをやっていたんですかね。
まー、これぐらいの子は、こういった遊びをする。
うちの子も、こういう遊びをよくする。

ところが、突然、その家が崩れる。
そして、その子は家の下敷きとなり亡くなってしまう。
しかも、目ん玉が飛び出しているって、ひどすぎるし、恐ろしすぎる。

それで、両親は、子どもを抱いて大声で泣いたとある。
多分だけど、この両親、何が起きたか分かっていないんじゃない?
そんな様子を長明さんも、胸が締め付けられる思いでそれを見ていた。

それで、見た目がいかつくて、武士のようなものでも、子どもを失えば恥も外聞もなく泣くものだと書いてある。
本当にそうだと思う。
正直、かける言葉が見つからない。
僕が同じ立場でも、もうただただ泣くだけだと思う。
それぐらい子どもを失うことはつらいことだと思う。

しかも、この子は、地震からも何とか免れて、津波からも免れて、何とか助かっていたんですね。
で、この子自身も、「あー、怖かった。助かった」と思っていたと思うんですよ。
ところが、こういう亡くなり方をする。
これは、本当に不幸としか言いようがないように思う。

こういうのを二次災害っていうんだろうけど、意外と二次災害は多い。
地震そのものよりも、その後の津波とか、土砂崩れとかの災害も甘く見ることはできない。
阪神大震災でも、地震の後の火災で神戸の街はだいぶやられている。

ところで、今回の話を読んでみて、長明さん、子どもを思う親の心について理解を示している。
いつの時代だって、親は子どものことを真っ先に思っている。
でも、こういうことって、自分が親になってみないと分からない部分もある。
実際、僕がそうだった。
なんだかんだ言って、やはり、子どもが大事なのだ。
昔の人は、目の中に入れても痛くないとか言ったらしいけどね。
まー、とにかく、親にとって子どもは大事なのだ。

ということを書いていると、太宰治の「桜桃」を思い出した。
桜桃は、太宰治の最後の作品。
で、その作品の中で、太宰治は、

「子どもよりも親が大事、と思いたい」

と書いている。
子どもよりも親が大事と思いたいということは、実際は、子どもの方が大事ということ。
きっと、太宰治にとっても、自分よりも子どもが大事だったのだと思う。

と、まー、色々考えていると、「長明さんって子どもがいたんだろうか?」っていう疑問が出てくる。
ついでに書くと、奥さんもいたのだろうか?
方丈記には、家族については、全く書かれていない。

一応書くと、方丈記の後半には、次の一文がある。

「すなわち、五十の春を迎へて、家を出て、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがなし。」

どういう意味かと言うと、

自分は、五十歳の春を迎えて出家をした。
自分には、妻や子がいないので、自分が出家することで迷惑をかけるような身内はいない。

といった内容になる。
つまり、長明さん、妻や子がいないとはっきり書いている。
ということは、長明さんは、生涯独身だったということになる。

ところで、鴨長明集の中には、次のような和歌がある。

「そむくべき うき世にまどふ 心かな 子を思ふ道は 哀なりけり」

どういう意味かと言うと、

自分は、人生に思い悩んで生きてきた。
いっそのこと出家をして遁世するか、それとも今の生活を続けるべきなのか。
ただ、この子はどうなるだろうか。
親というものは、何かにつけて子どものことが気になるし、子どものことを思うとやるせない。

これを読むと、長明さんには、子どもがいたことになる。
そして、子どもがいる以上は、妻もいたことになる。
そう、多分だけど、長明さんには妻子がいたのだ。
実際、長明さんは、他にも妻子の存在を伺わせる和歌を詠んでいる(らしい)。

また、方丈記の後半には、長明さん、小さい子どもと遊んだという話が出てくる。

また、ふもとに一の柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。そのよはい、ことのはかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組をつくる。

ふもとにこの山の山守がいる柴の庵があって、そこには小さな子どもがいた。
時々やってきて、互いに近況報告などしたりする。
暇なときは、その子と一緒にその辺を散歩する。
彼は10歳、自分は60歳と年の差は離れているが、楽しいと思う心は同じ。
その辺に生えている果実、草花など自然を相手に色々と遊んだりしている。

やはり、長明さんには、子どもがいたのだと思う。
そして、この山守の子どもに、自分の子どもを重ねることもあったのではないか。
長明さんにとって、この子は単なる遊び相手ではなく、我が子同然だったのかもしれない。
僕は、勝手にそう思っているけど。

今回はこの辺で。

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