方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/amono-tyomei/36/ 


右大臣実朝①

今回は、右大臣実朝について。

右大臣実朝。
これ、ほとんどの人は知らないと思う。
僕は、全く知らなかった。
たまたま、鴨長明のことを調べていたら、ぶち当たっただけ。

実は、これ、太宰治が書いた小説。
一応書くと、右大臣実朝だけど、鎌倉幕府の三代将軍の源実朝のこと。
ちなみに、お父さんは源頼朝。
右大臣とあるのは、朝廷から右大臣の官位をもらっていたから。

太宰治が、なぜ源実朝を書いたのか。
これは、僕は、知らない。
聞いた話だと、太宰治は、源実朝のことが好きだったらしい。
で、どうしても、源実朝を小説にしたかったとか。

それで、なぜ、今回、右大臣実朝なのか。
それは、この作品の中に、鴨長明が出てくるから。
なんと、あの太宰治の作品の中に、鴨長明が出てくるとはねー。
ちょっと嬉しいね。。。

この、右大臣実朝だけど、源実朝の側近(架空)が、語り手となっている。
で、この作品の中で、長明さんが、どのように描かれているかを見ていきます。

ちなみに、僕は、この作品、通しては読んでいない。
鴨長明が登場する場面だけを、少しかじった程度。
解説するような感じで書いているけど、実は、ほとんど知らないので。
ごめんなさい。

この、右大臣実朝、吾妻鏡をもとに書かれてある。
吾妻鏡と言えば、鎌倉幕府の歴史書。
吾妻鏡と言えば、古典や日本史の分野では、重要キーワードだったと思う。
とりあえず「吾妻鏡」というフレーズは覚えたけど、内容は全く知らなかった。

それで、吾妻鏡には、源実朝と鴨長明の面会の様子が、次のように書かれてある。

【原文】

鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、依雅経朝臣之挙、此問下向。
奉謁将軍家、及度々云々。
市今日当子幕下将軍御忌日、参彼法花堂。
念論読経之問、懐旧之、涙頻相催、註一首和歌於堂柱。

草モ木モ廃シ秋ノ霜消テ空シキ苔ヲ払ウ山風

【訳】
下鴨神社の氏人家で従五位下の官位である鴨長明が、飛鳥井雅経の推挙により、鎌倉に下向してきた。
鴨長明は、源実朝と何度かお会いした。
そして、鴨長明は、鎌倉幕府の初代将軍であった源頼朝の命日に法花堂(源頼朝を祭る施設)に参り、頼朝公を忍ぶ和歌を一首、法花堂の柱に刻んだ。

草も木も 靡きし秋の 霜消えて 空しき苔を 払ふ山風

まさに草木までもがなびくぐらいの権勢を誇った頼朝公も、秋の霜のように消えてしまい、今はただ墓の苔を払うかのように空しい風が吹いている。

まー、こんな感じで書かれてある。
しかも、原文は漢文だし。
これじゃあ、全く読めないわ。。。

それで、太宰治も、このあたりのシーンをもとに、想像で書いている。
で、以下、それを僕の独断と偏見で書いてみた。
すみません、適当で。
頑張れる人は、右大臣実朝を読んでみてください。

◆その年の秋、当時、蹴鞠がうまいことでも知られ、都の和歌所寄人の職にあった参議・飛鳥井雅経が、同じく和歌所寄人の同僚であった、あの鴨長明を方丈の庵から連れ出して、都から鎌倉へと下向してきました。
飛鳥井雅経は、鴨長明を実朝公の和歌の師匠に推薦しようとしたのですが、その様子を見ていた私たち側近からすると、この思いつきは失敗したように見えました。

※もともと、源実朝の和歌の師匠には、藤原定家がいたらしいのね。
その意味では、今回の計画は難しかったかもしれない。
語り手は、源実朝の側近として実朝公と鴨長明のやりとりを見ていた。
で、その様子からすると、この計画は失敗したように思うとある。
つまり、藤原定家がいてもいなくても、長明さんが源実朝の和歌の師匠になることは難しいと思っている。
あくまでも、この語り手から見てだけど。

◆さて、源実朝と鴨長明の面会の日。
源実朝の側近たちは、緊張の面持ちで準備をし、実朝公も朝からずっとお待ちかねの様子でした。
何しろ、鴨長明と言えば、都でも屈指の和歌の名人で、後鳥羽院からの評価も高く、身分は従五位下とそれほど高くはないのですが、それでも47歳の時に、九条良経、源通親、藤原定家らといった和歌の名人と共に和歌所寄人に任命され、歌人としてはこれ以上ない名誉ではありましたが、その後は、本人の思うところがあって出家をすると、京都の大原で隠棲をし、さらに日野山へと移られたそうです。
鎌倉へ来られた時点で、60歳前後だったそうで、出家したとは言いながらも、「隠す名は現れる」というたとえのとおり、鴨長明の和歌は新古今和歌集にもいくつか載っていて、当時の風流人としてその名前は、遠く鎌倉にも聞こえていました。

※このあたりは、鴨長明の簡単な説明ですね。
長明さん、お父さんは、下鴨神社の正禰宜惣官の鴨長継。
7歳にして、高松院から従五位下の位をもらい、貴族の仲間入りをしている。
おそらく、父からの期待も大きかったのではないか。
また、幼い頃から英才教育を受け、礼儀作法もしっかりしていたのではないか。
まー、僕の想像だけど。

次に、和歌所寄人の話。
長明さん、後鳥羽上皇が新古今和歌集を作成するといった時に、そのメンバーの一人に選ばれている。
まー、追加募集だったけど。
ただ、メンバー15人の内で、およそ半分が俊成一門の歌人。
それ以外も、それなりに官位のある有名人で、正直、長明さんが選ばれたのは、ラッキーのようにも思える。

そして、出家の話。
本文では、本人の思うところがあって出家をしたとある。
おそらく、河合神社の禰宜になれなかったことが原因ではないだろうか。
そして、このことは、太宰治も知っていたのだろう。
太宰治は、長明さんの有名人ぶりを「隠す名は現れる」と書いている。
そして、長明さんの名前は、遠く鎌倉にまで聞こえていたという。

鴨長明のことを、源実朝に教えたのは、飛鳥井雅経であると言われている。
この飛鳥井雅経も、変わった経歴の持ち主。
父の名は難波頼経といって、源平の戦いでは、源義経に味方をしていた。
ところが、頼朝と義経が争った際に、難波頼経は、頼朝から危険視されてしまう。
その結果、一旦、安房国(今の千葉県)に島流しになっている。
しかも、その後も、義経に味方しようとしたとかで、今度は、伊豆国(今の静岡県)に島流しになっている。

で、子の飛鳥井雅経もとばっちりを受けて、鎌倉で軟禁される。
ところが、この飛鳥井雅経、和歌、書道、蹴鞠がうまかった。
そして、源頼朝が、そのことを高く評価したことがきっかけで、飛鳥井雅経は、頼朝の子である頼家、実朝とも親交を持つようになったという。
しかも、飛鳥井雅経、最終的に、源頼朝の猶子にもなっている。

その後、軟禁が解かれると、飛鳥井雅経は、都と鎌倉のパイプ役として活躍したという。
おそらく、こういう事情もあって、鴨長明の名前が鎌倉に知られることになったのではないか。
なんてことを思うと、長明さん、引きこもりだとか、友達がいないとか言われているけど、決して、そんなことはないように思う。

最後、雑談になりましたが、今回はこの辺で。

次のページ>>右大臣実朝②
前のページ>>把針休息②

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう