方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守が居る所なり。

【原文】
また、ふもとに一の柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。そのよはい、ことのはかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組をつくる。

【訳】
また、山の麓に一軒の小さな小屋があった。そこには山の管理人が住んでいる。そこには男の子がいて、時々、私に会いにやってくる。特にすることもなく暇なときは、この男の子を連れて一緒に山をぶらぶらと歩いた。彼は10歳。私は60歳。年齢はだいぶ離れているが、気がまぎれて何だか楽しい気分になるのは二人とも同じだ。そして、山をぶらぶらと歩いて、茅の花芽を抜いたり、岩梨の実を採ったり、零余子をもぎ取り、芹を摘んだ。

【わがまま解釈】
この方丈記という作品は、同時代の人物が出てこないという点で、ちょっと珍しい作品らしい。
昔の説話集とか、日記には、たいてい当時の人物が登場する。
例えば、方丈記以外の長明さんの作品でも、当時の人物は登場している。
唯一、同時代の人物として方丈記に登場するのは、隆暁法院という方。
養和の飢饉の話で出てきた。
で、名前は分からないけど、長明さんに近い人物として登場するのが、今回出てくる10歳の子ども。

山のふもとに小さな小屋があった。
で、そこに山の管理人が住んでいた。
で、そこには管理人の男の子がいた。
長明さん、この子と仲が良かったように思われる。

長明さん、50歳前の河合社禰宜事件で、完全に神職の道を断たれた。
しかも、和歌所寄人の職まで捨ててしまった。
そして、大原に出家遁世をする。

ところが、この大原での出家生活は、いまいちだったらしい。
何の悟りを得ることもできなかった。
ただ、この大原にいた時代に、長明さんは、日野長親と仲良くなる。

で、大原をあきらめて、別の新天地を目指そうとする。
新天地は日野だった。
長明さん、日野長親を頼って日野に引っ越しをしたらしい。
日野長親も、長明さんのお世話を色々としたのだろう。

で、日野長親は、この山守の親子に、長明さんのお世話を頼んだのではないだろうか。
「長明さんの面倒を見てやって欲しい」と。
まー、僕の勝手な妄想だけど。。。

で、山守の子が、ちょくちょく長明さんの様子を見に来ていたのではないか。
それが、その内に、仲良くなって一緒に遊ぶようになった。
長明さんにとっては、ちょっとした癒しだったのではないだろうか。

その子は10歳、自分は60歳。
年齢差で言うと、子どもというよりは孫だろうか。
で、だいぶ年の差は離れているけど、楽しいのはどちらも同じとある。
これ、本音だと思う。

この世の中、生きにくいなあ。
なんか人間関係をうまくやっていくのもしんどいなあ。
自分は本当に運がないなあ。

こんなことを思いながら生きてきた長明さん。
これ、相手が10歳の子どもだったから良かったのだと思う。
とにかく、変に気を遣う必要がない。
かっこつけたり、自分を大きく見せる必要もない。
これ、相手が、普通の大人だったら、ここまで仲良くはなっていなかっただろう。

長明さん、今でこそ、一人淋しく方丈の庵に住んでいる。
見た目だけなら、大したこともない。
しかし、和歌、音楽の才能はすごかった。
しかも、楽器は自分で作るし、家だって自分で建てた。

この男の子も、そういう長明さんの凄さに気が付いていたのかもしれない。
見た目こんなんだけど、なんかこのおじいちゃん凄いなって。
この男の子は、長明さんの小さな相棒だった。

長明さん、若くして妻子がいたという。
しかし、30歳を過ぎた頃に妻子と別れている。
それ以降、長明さんが妻子と会えたかどうかは知らない。
もしかしたら、会えなかったかもしれない。

長明さん、この子と遊んでいる内に、妻子を思い出すこともあったのではないか。
「わが子どもも元気にしているだろうか」と思った瞬間もあったのではないか。
自分の子どもと目の前の子どもを重ねた瞬間もあったかもしれないよね。

で、二人は、仲良く山を散歩する。
そして、茅花、岩梨、零余子、芹といったものを取っては食べたそう。
また、天気が良い日は、二人で遠出をしたりもしたのだろう。

分からないけど、遠出をした先で、和歌を詠んだりとか、琵琶を演奏したりとかもあったかもしれない。
お腹が空いたらそのへんの実を取って食べる。
そんなことを想像すると、なんかとても楽しい感じがする。

どこで読んだか忘れたけど、日野には、日野氏の氏寺である法界寺というお寺があった。
それで、長明さん、法界寺を訪れることもあったらしい。
で、色々と法界寺でお世話を受けることもあったとか。
もしかしたら、二人で、法界寺に行って遊ぶこともあったかもしれない。

とにかく、長明さんにとっては、この日野での生活は至れり尽くせりだったようにも思う。
逆に、大原での生活のことは、全く書かれていないところを見ると、本当にいまいちだったのだろう。
方丈記では、大原ではムダに五年の歳月が過ぎたとしかないけど。

最後に、どうでもいい話だけど、茅花、岩梨、零余子、芹について書いて終わります。
本当にどうでもいいのだけど。。。

◆茅花(つばな)
イネ科の草で、昔は食べられたこともあるらしい。
見た目はススキ。
昔から、茅葺の屋根の原料(部材)として利用されていたらしい。
ちなみに、雑草としての要素も強く、Wikipediaによると「世界最強の雑草」という称号もあるとか。

◆岩梨(いわなし)
岩梨とあるけど、ツツジらしい。
古くは、食用とされていた時期もあったとか。
岩場に生えて、実が梨のような味であることから、岩梨と言うようになる。
山奥育ちの僕の母は、小さい頃食べていたと言っていたけど。。。

◆零余子(むかご)
うーん、ひらがなを振ってくれないと読めないなー。
「植物の栄養繁殖器官の一つで、わき芽が養分を貯え肥大化した部分のこと」らしいけど、よく分からない。
一般的には、山芋の蔓の小さな実みたいなもの(肉芽というらしい)を指すとある。
以前は、食材としてスーパーでも売られていたとか。

◆芹(せり)
これは今でも食べられている野菜で、春の七草のひとつ。
日本原産の野菜で、欧米では食べる習慣はないとある。
また、ビタミン、ミネラル、鉄分、食物繊維などをバランスよく含んだ野菜とも書かれてある。
余談だけど、芹を摘むというのは、思い通りに行かない、願いが叶わないという意味があるようです。

今回はこの辺で。

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