方丈記に、似た運命

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河合神社の禰宜を巡る争い②

前回からの続き。

長明さん、朝も昼も夜も働いた。
源家長も、これには見直したんじゃないだろうか。
で、この事実を、後鳥羽上皇に報告しなければと思ったのではないか。

和歌所寄人として働きだして3年が過ぎた頃。
後鳥羽上皇が、長明さんに褒美を取らせようとする。
ちょうどその頃、下鴨神社の摂社の一つの河合神社で、禰宜の席が空いた。
で、後鳥羽上皇は、そこに長明さんを置こうとする。

このあたりの話は、方丈記にはない。
でも、源家長日記には、記録がある。
それで、僕のバイアスをかけて、書き進めていく。

【原文】
しかあれば、事のついで求めい出でて、さるべき御恵みあらまほしくおぼしめいたる折しも、川合社の禰宜欠いてきたるを、世人も「この度は長明になし給びてむずらむ」と思へば、いまだ申し出ださぬさきに、さる御気色侍りしかば、ないないも漏れ聞きて、喜びの涙せきとめがたき気色なり。

これだけは、サンドイッチマンでも意味が分からない。
それで、ここから先は、僕なりの訳と解釈でじっくりと話を進めていきます。

後鳥羽上皇としては、長明さんに、サプライズのご褒美を与えたかった。
それで、後鳥羽上皇は、河合神社の空いた禰宜の席に長明を充てようと密かに段取りをする。
で、このことは一部の者しか知らなかった。
ところが、その話が少しずつ漏れてしまう。
その話を聞いた者たちは、「今回の河合神社の禰宜は長明で決まりだろう」と噂をしている。
そして、ついには、そんな話が長明さんのもとにも届くようになる。

もしかしたら、長明さんに近い誰かが、「長明さん、聞きましたよー。今度、河合神社の禰宜になるらしいじゃないですか。頑張ったかいがありましたね。おめでとうございます」と言ったかもしれない。
それは、分からないけど。

ただ、こうして、まだ、後鳥羽上皇から正式に伝えられる前から、長明さんは、後鳥羽上皇が河合神社の空いた禰宜に自分を置こうとする話を聞いてしまう。

それで、長明さんが、どう思ったかというと、「喜びの涙せきとめがたき気色なり」とある。
つまり、嬉しさのあまり涙を流して喜んだらしい。

長明さん、17歳の時に、下鴨神社の正禰宜惣官だった父を失い、出世の道が閉ざされた。
しかも、その後の何回かの人事でも、下鴨神社の役職に就くことができなかった。
最終的に、下鴨神社の正禰宜惣官の地位を鴨祐兼と争い、これに敗れて以降は、神職の道をあきらめている。
その後は、ニートや引きこもりの状態が続いた。
家族からも見捨てられた。
相続するはずだった父方の祖母の家も、追い出された。
妻子と別れて、淋しい一人暮らしの日々だった。

で、50歳になって、再び、神職の道が開かれようとしている。
長明さん、幼いころから「父のような立派な神職になれ」と言われていた。
長明さんにとって、父こそが目標だった。

あのときは、自分の腕をすり抜けていってしまった。
しかし、今、手を伸ばせば掴めるところに、父と同じ神職の道がある。
長明さん、これを掴み損なうことなどないと思っただろう。

ちなみに、河合神社は、さっきも書いたけど下鴨神社の摂社の一つ。
今では縁結びの神様として有名な神社。
そして、父・長継も、河合神社の禰宜を経て、下鴨神社の正禰宜惣官になっていた。
だから、長明さんは、よけいに嬉しくて仕方なかった。
父と全く同じ道を辿れることに、泣いてしまうぐらい嬉しかった。

これ、自分に置き換えてみても、相当嬉しいと思う。
僕なんか、「やったぜ、ちくしょー」と叫んでいると思う。
もーね、毎晩、酒を飲みながら、辛かった過去を思い出して、それでも、今こうして幸せを手にすることができる状況に、一人涙を流しているだろうね。

長明さんの河合神社の禰宜就任は、疑いがなかった。
はずだった。

ところが、これに待ったをかける人物がいた。
ねるとん紅クジラ団で言えば、「ちょっと、待った―」だろうか。

鴨祐兼だった。

また、あいつだった。

鴨祐兼。
先にも書いたけど、出世競争で敗れた相手。
瀬見の小川事件では、自信作をボロクソにも言われた。
長明さんと鴨祐兼は悪縁だったのかもしれない。

しかし、今回は、長明さんにも絶対の自信があった。
こっちには、後鳥羽上皇の推薦状がある。
後鳥羽上皇の推薦状さえあれば、俺が負けることなどない。

ところが、鴨祐兼は、相手が後鳥羽上皇でも、折れるそぶりを見せなかった。
そして、河合神社の禰宜に息子・祐頼を推薦してきた。

鴨祐兼の言い分は、次のとおりだった。

・息子・祐頼の官位は正五位下であるが、長明の官位は従五位下であり、息子・祐頼の方が官位が高い。
・長明の方が年上ではあるが、下鴨神社の仕事をきちんとしているのは息子・祐頼である。
・自分の意見は下鴨神社の正禰宜惣官の言葉として、十分に重んじられるべきである。

そして、長明さんと鴨祐頼のどちらが河合神社の禰宜に相応しいか、議論がなされる。
長明さんのバックには後鳥羽上皇。
鴨祐頼のバックには、父であり下鴨神社の正禰宜惣官である鴨祐兼。

どちらが、河合神社の禰宜になってもおかしくはない。

そして、河合神社の禰宜になったのは・・・

鴨祐頼

だった。

長明さんからすると、まさかまさかの敗北だった。
長明さん、かなりショックを受けたと思う。
間違いなく、河合神社の禰宜になれると思っていた。
ところが、後鳥羽上皇の推薦状をもってしても、神職の道は叶わなかった。

大どんでん返し。

これね、本当に分からない。
分からないけど、長明さん、こんなことになるなら、最初っから期待させないでくれって思ったんじゃない?
長明さん、この歳になって、こんな辛い思いをするとは、予想していなかったと思う。
完全に引導を渡された。
そう感じたかもしれない。

やはり自分には、神職の道は無理だった。
むしろ、後鳥羽上皇の推薦状をもらったことで、浮足立って喜んだ自分が馬鹿だった。
そう思ったかもしれない。
いや、そう思う以外に、他にやりようがあっただろうか。

とにかく、この事件をきっかけに、長明さんの神職の道は断たれた。

今回はこの辺で。

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