方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/hojoki/33/ 


仁和寺に隆暁法院といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、

【原文】
仁和寺に隆暁法院といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

【訳】
そのころ仁和寺に隆暁法院という人がいた。このような状況で、多くの人々が死んでいくのを悲しみ、死者の身体を見つけるたびに額に阿字を書いて、死者の成仏を行った。死者の数を把握しようとして、四月と五月の二か月だけではあるが調査してみたところ、都の内、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀よりは東のエリアで道端にある死者の数を数えたところ、全部で42300人であった。もちろん、四月と五月の前後で死んだ者も多く、さらに、河原や白川、西の京などの都の郊外の分も加えると、死者の数は際限がないだろう。さらにさらに、都から遠い地方の分まで加えたなら、もはや死者の数を数えることはできないだろう。

【わがまま解釈】
今回も、養和の大飢饉について。
今回は、被害の状況を数字で見ている。

それで、まず、仁和寺の隆暁法院というのが出てきた。
つまり、仁和寺というお寺の隆暁法院という僧侶。

それで、方丈記という作品を通して、当時の人の名前が出てくるのは、珍しいことらしい。
実際、僕も、方丈記を読んでみたけど、当時の人の名前は「隆暁法院」さんしか書かれていない。
例えば、安元の大火とか、治承の竜巻とかだと、実際に、被害にあった人の名前を書くこともできたと思う。
例えば、福原遷都だと、平清盛の鶴の一声で決まったと書くこともできたと思う。
ところが、実際には、当時の人たちの名前は、全く出てこない。
唯一、「隆暁法院」さんだけが出てくるだけ。

但し、過去の人物については、たくさん出てくる。
分からないけど、当時の人の名前を書かなかったのは、何か意味があるのかもしれない。
また、当時の人の名前で「隆暁法院」さんだけ出てきたのも、何か意味があるのかもしれない。

それで、隆暁法院さんだけど、ネットで調べてみたけど、全く情報がなかった。
で、さらに調べてみると「隆暁法印」と書かれてあることが分かった。
それによると、隆暁法院は、仁和寺の近くにある勝宝寺というお寺の住職をしていたとか。
しかも、真言宗の総本山・東寺の副住職もしていたらしい。
つまり、僧侶としてはトップレベルの人物。

で、隆暁法院は、仁和寺の僧侶とある。
調べた範囲では、仁和寺の僧侶かどうかは分からなかったけど、仁和寺も真言宗のお寺なので、そういう理解になったのだろうか。。。

次に、仁和寺。
これ、古文の教科書にも出てくるお寺。
徒然草に「仁和寺の法師」というお話があるんだけど、その仁和寺。
しかも、このお話が、ちょっと面白い。

仁和寺の法師が、年を取るまで石清水八幡宮をお参りしたことがないことを残念に思っていた。
それで、ある時、一人で歩いてお参りにいった。
山の麓の極楽寺と高良神社をお参りし、石清水八幡宮へのお参りはこれで無事終了と思い、そのまま帰ることにした。
帰った後、同僚に、「念願の石清水八幡宮のお参りをしてきた。予想以上の尊さだった。ところで、他の参詣者が皆、山を登っていたが、何が山上にあったのだろう。行ってみたいとは思ったが、お参りすることが目的であるから、山上までは見に行かなかった。」と言った。
小さなことにも、案内者は欲しいものである。

分かりますか?
この仁和寺の法師は、結局、石清水八幡宮には行っていないのね。
何て言うか、ちょっとどんくさい。

まさかとは思うけど、この仁和寺の法師って・・・

「隆暁法院」

じゃないよね?
もしこれで、この仁和寺の法師が隆暁法院だったら、かなり残念なんだけど。。。
どうか、隆暁法院ではありませんように。。。

一応書くと、僕の手元にある本では、源頼朝が自分の子・貞暁を隆暁法院の弟子にしてもらったとある。
やはり、隆暁法院は、並々ならぬ僧侶だったのかもしれない。
ついでに書くと、源実朝を暗殺した源頼家の子・公暁は、この貞暁の弟子なんだとか。

話を戻します。

隆暁法院は、この状況で多くの人が亡くなるのを悲しんだ。
それで、死者の成仏を願うために、ひたいに「阿」の字を書いた。
この「阿」の字がどういう意味を持つのかは分からなかった。
一応調べて、色々と説明は書いてあるけど、分からなかった。
ごめんなさい。。。

そして、死者の数を数えてみた。
四月、五月の二か月間で、都の東半分で調査したところ、42,300人が亡くなっていた。
一つの都市で、一つの災害で、ここまで死者が出るってすごいんじゃない?

ちなみに、当時の平安京の人口は、10万人~20万人ほどなんだとか。
どうやって、計算したのかは不明だけど。
まさか人口調査なんてしていないだろうし。。。

それで、仮に、人口を20万として計算すると、

42,300/200,000*100=21(%)

となって、平安京の人口の2割が亡くなったことになる。
ちなみに、もし、平安京の人口が10万人なら、4割が亡くなったことになる。
さすがにこれはないか。
でもね、人口の2割が亡くなるのも相当ひどいと思うよ。

しかも、四月、五月の二カ月だけだからね。
これ、トータルだったら、ありえない数の人が亡くなっているよ。

ていうか、本当に、42,300人も亡くなったんだろうか。
そもそも、隆暁法院は、一人で「阿」の字を書いたのか?
42,300回も?

例えば、源平の戦いの一つだった富士川の戦い。
平家物語は、平家方は7万と書いている。
ところが、玉葉では、平家方を4千と書いている。
もしかしたら、42,300という数字も、平家物語ではないのか。
実際は、10分の1程度と言うこともあるんじゃない?
だとしても、4千人程度が亡くなったことになるから、充分大きい数字だとは思うけど。

ここからは余談。
当時は、養和の飢饉を含めて、大きな飢饉が三つあったらしい。
それを簡単にまとめたのがこれ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
飢饉名   発生年  状況
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
養和の飢饉 1181 西日本を中心に飢饉が発生、翌年には疫病も発生。
           方丈記によると少なくとも42,300人が亡くなったと模様。
寛喜の飢饉 1230 異常気象のため北陸道や南海道で凶作。天下の3分の1のが亡くなったとある。
           藤原定家の日記にも「街中に死体が転がり、死臭が酷い」とある。
正嘉の飢饉 1258 都では飢餓のあまり、人を食したとの噂が出る。
           村によっては百姓の死亡・逃亡のために年貢の徴収、公事ができなかったとある。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

今回はこの辺で。

次のページ>>崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしはありけりと聞けど、その世の有り様は知らず。
前のページ>>またいとあはれなることも侍りき。

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう