方丈記に、似た運命

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方丈記と続堕落論

今回は、方丈記と続堕落論。

続堕落論。
実は、続堕落論の前には堕落論があった。
でも、今回は、続堕落論の方。

堕落論も続堕落論も、作者は坂口安吾。
太宰治と同じ無頼派の作家で、戦前戦後にかけて活躍した作家。
お父さんは、衆議院議員を務めた名士だったとか。

それで、続堕落論に、次のような文章がある。

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。
即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。
だが堕落者は常にそこからはみだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。

これ、長明さんにぴったりだなーって思う。
いや、僕にもそこそこ当てはまる。
悩みが深い人ほど、当てはまるのかもしれない。

だいたい、堕落論というタイトルがいい。
なんか、堕落してOKというか、堕落していいの?ってなる。
僕だけかもしれないけど。

堕落。
落ちぶれるという感じだろうか。
落ちぶれて、生活がだらけて、人としてダメになるとか。
「あいつも、落ちたなーっ」てとこだろうか。

それで、堕落そのものは悪だと書いてある。
堕落した人間を見て、「おっ、いいね!」という者はいない。
ちなみに、僕の場合、ここしばらく、ずーっと堕落したたまんま。
惨めなもの。

それで、堕落をよーく分析すると、そこには孤独があるんだとか。
そうかもしれない。
堕落すれば、周囲の者から捨てられる。
父母からも捨てられる。
頼れる者は自分だけ。

まさに孤独。

で、長明さんの人生もそうではなかったかと思う。
見る角度にもよるだろうけど。

例えば、長明さん、17歳の頃に父・長継を失っている。
これによって、出世競争に敗れることになる。
さらに、30歳前後で、住んでいた家を追い出されている。
そして、家族と離れて生活をすることになる。

長明さん、お父さんが亡くなった時に、その死を嘆き悲しむ和歌を詠んでいる。
きっと、孤独だったと思う。
しかも、源家長日記では、長明さんことを「みなしごで、引きこもり」と書いてある。
やはり、孤独だったと思う。

いつも書くけど、方丈記には、次のように書かれてある。

【原文】
すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひ目、おのずから、短き運をさとりぬ。

【訳】
だいたい、私は、この生きにくい世の中を、我慢をしながら、心を悩ませながら、30年以上生きてきた。
その間、私の人生は、節目節目で挫折を繰り返し、自分の運のなさ、人生のはかなさを悟った。

長明さん、ずーっと悩んできた。
孤独な人生だったと思う。
周囲の者は、しらんぷりだったのだろう。
これは、出世競争に敗れた者の宿命なのだろうか。

で、一方のふつーに生活をしている者、のほほんと生活をしている者は、毎日をふつーに生きているわけ。
多少の息苦しさはあるだろうけど、社会システムの中で呼吸をして、社会システムの中で死んでいく。
社会システムと書いたけど、世の中とか、世間とか、そこでのやり方とかルールとか、そんなところ。
つまりは「普通の生活」という奴。

ただ、この社会システムから落ちた者はどうなるのか。
堕落者は、つねに社会システムからはみ出して、ただ一人広野を歩くと書いてある。
頼れる者がいない以上は、一人で広野を歩く以外方法はない。

まさに、若くして父を亡くした長明さんも同じだったと思う。
当時は、出世するかどうかは、父親の存在が大きかったという。
それが、当時の社会システムであり、やり方だったらしい。

それで、悪徳はつまらないものだが、孤独という通路は神に通じる道とある。
堕落そのものは、良いものではない。
しかし、堕落の中にある孤独。
それは、神に通じる道だという。

これは、もう、堕落して孤独を経験した者しか分からないのではないか。
もはや、普通の状態には戻れない。
だとしたら、たとえ、道でない道、踏み外した道だとしても、そこを歩く以外に救われる方法はない。
堕落者にとっては、その道なき道こそが救いの道になるのだろう。

それで、坂口安吾は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と書いている。
これ、浄土真宗の親鸞聖人の言葉。
さらに言えば、その師匠の浄土宗の法然上人の言葉。
悪人正機説。

実は、長明さん、浄土教を信仰していた。
もっとも、当時の貴族では、浄土信仰が多かったらしいけど。
おそらく、この悪人正機説を知っていたのではないか。

そもそも、長明さんが晩年を過ごした日野山は、浄土信仰の色が濃い地域だった。
それどころか、日野は、親鸞聖が生まれた土地。
大原で悟りを得られなかった長明さん。
次に、日野を選んだのも、何か理由があったのではないか。

阿弥陀仏は、全ての者をお救いくださる。
本来、救う必要のない、たとえば、悩みの少ない生活をしている者でさえ、お救いくださる。
ということは、煩悩にまみれた悩み多き者は、真っ先にお救いくださるはずだ。
だから、安心して道なき道を行けということなんだろう。

長明さん、本当に、節目節目で人生を踏み外した。
下鴨神社の正禰宜惣官の子として生まれ、将来を約束されていたにもかかわらず、負け組の人生を歩いた。
しかし、そんな人生だからこそ、阿弥陀仏は、真っ先に自分をお救いくださるはずだ。
長明さん、そう思ったのではないか。
あるいは、そう思うしかなかったのではないか。

方丈記の最後は、長明さんが、「南無阿弥陀仏」を二、三回と唱えて終わる。
本当に分からないけど、僕は、長明さん、救われたと思う。
そして、堕落の中にある孤独によって、実は、強く生きたのではないかと思う。

今回はこの辺で。

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