方丈記に、似た運命

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松倉一族~島原の乱と松倉重政、勝家親子

前回、小笠原一族のダメっぷりを書きました。
で、探してみたら、小笠原家に匹敵するぐらいのダメ一族を見つけた。
正直、ちょっと嬉しかった。
「おー、おった、おった!」って感じ。
それが、今回、紹介する松倉一族。

というわけで、今回は、松倉一族のダメっぷりを書きたいと思います。
松倉一族で、最初に名前が出てくるのは、松倉重信。
ただ、この松倉重信は、ダメな奴ではなかった。
重信は、筒井順慶に仕えていた。

それで、筒井家には、松倉重信、島左近、森好之がいて、この3人を筒井の三家老と呼ぶらしい。
また、松倉重信は右近という通称を持っていたらしく、島左近と共に筒井の両翼(右近・左近)と呼ばれていた。
一般的には、こんな理解となる。
ただ、当時の記録では、筒井の両翼には、全く別の人名前が書かれてあるらしいけど。
まー、そうは言っても、筒井家の重臣の一人ではあったのではないだろうか。
ただ、「筒井の三家老」、「筒井の両翼」から「重臣の一人」だと、ランクダウンした感じがするけど。

あと、山崎の戦いの際には、主君の筒井順慶に「洞ヶ峠の日和見」を進言したのも、この松倉重信だそう。
ただ、この話自体は、江戸時代に出てくる話らしくて、どうやらウソらしいけど。
しかも、「洞ヶ峠の日和見」が影響したのかは分からないけど、山崎の戦いに参加しなかった順慶は、後日、秀吉から叱責を受けたんだとか。

と、まー、松倉重信はこんな感じの人。
特に問題はない。

で、問題なのは、松倉重信の嫡男の松倉重政。
重信の後を継いで、重政も大和国(今の奈良県)五条を治めていた。
この頃、重政は、城下町の整備に力を入れている。
減税をして商業を盛んにしたり、防火対策をしたり、道を整備したりと、けっこう頑張っている。

また、大和国(今の奈良県)は、寺社勢力が強く、治めにくい土地柄だったそう。
しかし、松倉重政は、特に問題を起こすこともなく、きちんと領地を治めている。
もともと、大和国(今の奈良県)の出身というのもあって、勝手が分かっていたというのもあると思うけど。
で、秀吉の期待に添うべく、領地を治める。

そして、秀吉亡き後は、徳川家康に接近する。
で、関ケ原の戦いで徳川方として戦い、領地が加増され1万石となる。
つまり、大名となったのね。

そんな重政は、大和国(今の奈良県)では、名君として領民にも慕われていたらしい。
現在でも、奈良県五條市では、重政の功績を偲んで、松倉祭りが開催されている。
一応書くと、江戸時代には、すでに松倉祭りはあったとか。。。

また、重政は、町づくりだけでなく、やり働きもできた。
関ケ原の戦い、大坂の陣と、徳川方として戦い、戦功を上げている。
特に、大坂の陣では、領地が要衝となる大和国(今の奈良県)だったこともあり、抜群の戦功を上げる。
その結果、重政は、この忠勤ぶりが評価され、肥前国(今の長崎県)島原に4万3千石を与えられる。
領地替えだけど、もともとが1万石だったので、大出世と言ってもいいかなと。

それで、重政は、五条を離れて島原に入る。
で、島原に来てからも、塩害防止のために防風林を造ったり、南蛮貿易で利益を上げたり、江戸城の改築工事にも参加したり、そつなく仕事をこなしている。

あれっ、おかしい。
松倉一族のダメっぷりを書くつもりが、全然ダメじゃない。
むしろ、名君ぶりを発揮している。

ううん、大丈夫。
重政が名君だったのも、ここまでだから。
ここから、一気にダメ君主に変身するから。

重政、島原に入ると、島原城を築城したり、城下町を造っている。
で、この島原城が、とんでもない立派な城だった。
石高4万3千石に対して、10万石の大名クラスの城を造ってしまう。

そして、同じことが江戸城の改築工事でも行われた。
石高4万3千石に対して、10万石の大名がするような仕事を引き受けてしまう。
まー、これについては、重政は外様大名だから、仕方なかったという意見もあるみたいだけど。

とにかくね、身の丈以上のお城を造る。
身の丈以上の仕事を引き受ける。
こんなことをしたもんだから、もうお金がいくらあっても足りないのね。
言うなれば、年収4百万の人が、年収1千万の生活をするようなもんだから。
もうね、本当に大変なわけ。

それで、重政がどうやってお金を工面したかと言うと、領民から取るしかなかった。
重政は、とにかく領民たちに重い税金をかけて、お金を搾り取った。
こうなると、もう領民たちは溜まったもんじゃないわけ。
まさに、水戸黄門に出てくる悪代官。
いや、それ以上か。

いやー、「一体、彼の身に何が?」って感じ。
島原に来る前と後で、あまりにも違い過ぎる。
五条にいた頃、名君と謳われた重政はどこにいった?

それで、これだけでも十分ひどいんだけど、重政は、さらにひどいことをする。
それは、キリシタンの弾圧。
その頃、徳川幕府は、キリシタンの取締りを強化していた。
で、重政、将軍・徳川家光からキリシタンの取締りが甘いと叱責を受けたらしい。
その結果、重政は、領民に対してさらにきつい弾圧を行うようになる。
年貢を払えない領民、キリシタンなど、自分の言うことを聞かない奴を徹底的にいじめた。

例えば・・・
・顔に「吉利支丹」という焼き印を押す。
・指を切り落とす。
・熱湯を使った拷問
などを行ったんだとか。

そして、1630年、天罰が当たったのかどうかは知らないけど、重政は病に倒れて亡くなる。
で、その後を継いだのが、長男の勝家。
それで、勝家の領国政策がどうだったかというと、父・重政よりも輪をかけてひどかったらしい。

領民たちが税金を支払えないと、村の責任者である庄屋が責任を問われ、妻や娘が人質として捕らえられる。
ある村では、庄屋の妻で身重だった者が捕まり、水牢に閉じ込められた後、そのままそこで出産したものの、妻も子も亡くなってしまう。
キリシタンや年貢を払えない領民に蓑を着せて、それに火をつけて焼き殺すという蓑踊りという処刑を行う。
と、まー、こんなことをしたんだとか。

いやー、もう、完全に狂っている。
僕なら、こいつ、絶対死刑。
で、ついに、島原の領民たちが立ち上がった。
それが、日本史上、最大の一揆となった島原の乱。

で、勝家、鎮圧のために兵を出すのですが、見事に失敗。
徳川幕府としても、板倉重昌を総大将に九州の諸大名を集めて、鎮圧のための兵を派遣する。
ところが、あれっ、総大将・板倉重昌が戦死。
最終的に、数か月に渡る攻防の末、幕府軍が一揆勢を打ち破って、何とか島原の乱は終結。

その後、幕府は島原の乱の原因調査を行い、松倉重政・勝家の領国経営に問題があることが判明する。
それで、勝家は、自分の失政を棚に上げて、領民やキリシタンが悪いと主張したとか。
当然、そんな言い訳が通用するわけもなく、勝家に下された処分は斬首。
ちなみにだけど、江戸時代を通して、大名が斬首となったのはこの1件だけだそうです。
まー、斬首でも足りないと思うけど。。。

今回はこの辺で。

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