方丈記に、似た運命

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キスカ島撤退作戦~キスカの奇跡

今回は、戦国史をはなれて、キスカ島撤退作戦について書きます。

キスカ島撤退作戦は、太平洋戦争中に行われた、日本軍の作戦の一つ。
それで、このキスカ島撤退作戦、後に奇跡の作戦と言われることになる。
まー、もしかしたら盛っている部分もあるかもだけど。
だけど、それも込みでその奇跡っぷりを見ていきます。

まず、舞台は、太平洋線中のアリューシャン列島の1つ、キスカ島。
そのまんまですね。
で、太平洋戦争中、この島に日本軍6千が立てこもっていた。
ところが、アメリカ軍がここを攻略すべく大軍で攻めてくる。
で、日本は、6千の兵士全員を無事に撤退させることを計画する。

一応書くと、キスカ島の横にはアッツ島があるのね。
で、まず、このアッツ島が先にアメリカ軍の攻撃を受けて、兵士全員が玉砕している。
そして、そのアッツ島の玉砕があって、その次に、キスカ島がアメリカ軍の攻撃を受けたという流れになる。

ちなみに書くと、アッツ島の守備隊長だった山崎保代中将。
大本営からはアッツ島を見捨てると連絡を受けていたとか。
最終的に、アッツ島の守備兵2千6百人の命を捨てさせることになってしまう。
山崎中将の気持ちを考えると、相当つらかったに違いない。

そして、キスカ島もアメリカ軍によって囲まれる。
で、大本営は、今回は、キスカ島の救出作戦を計画する。
さすがに、アッツ、キスカと連続で兵士を見捨てることはできなかったのかもしれない。

それで、大本営は、はじめ潜水艦による救出作戦を行う。
ところが、ここで多数の潜水艦が、アメリカ軍によって撃沈される。
しかも、潜水艦の場合、1回で運べる人員にも限りがあった。
そのため、最終的に、大本営は、潜水艦による撤退を中止する。

そして、今度は、駆逐艦や巡洋艦による救出作戦に切り替える。
ただ、駆逐艦や巡洋艦は、潜水艦と違って丸見えとなる。
だから、いかにアメリカ軍に見つからないようにするのかが最大のポイントになるんだとか。
そうでなくとも、当時、すでにアメリカにはレーダーが装備されていた。
だから、アメリカ軍に見つからないこと、これは絶対条件だった。

それで、この時、この作戦の現場指揮を執ったのが木村昌福中将。
まだこの時点では少将だったけど。
で、木村中将は、この付近に発生する濃霧を利用して、救出作戦を行う計画を立てる。
そして、幌筵の気象台が濃霧の発生が予想されることを発表すると、1943年7月12日を決行日として、7月7日、救出部隊は幌筵を出発する。

そして、救出部隊はキスカ島の近海に無事到着。
7月12日、救出部隊は、キスカ島に突入しようとするも、ここで霧が晴れてしまう。
そのため、12日の救出を断念する。

その後、13日、14日、15日と日をずらしながら突入する機会を伺うも、結局、思ったよりも霧が出なかったために、一旦、救出部隊は、幌筵に帰還する。
このとき木村中将が言った有名な言葉が、「帰ろう。帰ればまた来られるから」というもの。
木村中将としては濃霧が出ていない以上、無理にキスカ島に突入するのは危険であると確信していたと思う。

でも、キスカ島の守備隊からすると、いつ救出部隊がきても良いように、海岸近くに準備しているわけ。
で、守備隊の方も、霧の状況を見て、今回の救援は無理かもしれないと思っていたかもしれない。
木村中将も、キスカ島の兵士たちのことを思うと、胸中は複雑だったと思う。

幌筵に戻った木村中将だけど、大本営からは「なぜ突入しなかった」と文句を言われる。
もちろん、大本営としても、事情は分かっているはずだけど。
ただ、潜水艦による救出が失敗し、今回の救出も完全に空振りをしてしまい、2回連続で救出作戦を失敗している。
これ以上の失敗は許されない。
また、この救出作戦に使える燃料もたくさんあるわけでもない。

さらに、キスカ島の海域に濃霧が発生するのは、たいてい7月いっぱいまでだった。
で、8月になると濃霧が発生しなくというのもあった。
つまり、日本としては、7月いっぱいが作戦のタイムリミットだった。

いつ霧が出るのか?
日本にとって霧が出ることは、願いでもあり祈りでもあったと思う。

7月22日、幌筵の気象台が、7月25日以降にキスカ島に濃霧が発生すると発表する。
救出部隊に緊張が走る。
そして、同日夜、救出部隊が幌筵を出撃する。

ところが、今度は、濃霧が強く、航行中に軍艦同士がぶつかるという事故が起きる。
これにより、現場には、多少の混乱が発生する。
しかし、木村中将は、その状況の中で喜んでいた。
つまり、それだけ強い濃霧なら、救出作戦は可能かもしれないと思っていたのね。

ただ、当初、キスカ島突入は28日だった。
しかし、この事故の影響で、29日に突入をずらしている。
また、29日の方が、濃霧が強いという予報も出ていたとか。

それで、ここまでは日本軍の動き。
当然、アメリカ軍も日本の救出部隊が出てくることを予想している。
そのため、アメリカ軍も、この海域を厳重に警戒していた。

7月26日。
アメリカの軍艦のレーダーが、突然、反応をしめす。
そして、アメリカ軍は、一斉に攻撃を加える。

ただ、日本の救出部隊は、この時点では、キスカ島の沖合にいて、突入のタイミングを計っていた。
つまり、アメリカ軍は、日本軍を攻撃していない。
そうなると、アメリカ軍が攻撃したのは何だったのか?
このあたり、アメリカの軍艦のレーダーがなぜ反応をしたのかは不明だけど、誤作動をしたのだろうか。

7月28日。
アメリカ軍は、日本軍の壊滅を確信する。
そして、燃料・弾薬の補給のために、一旦、キスカ島周辺から引き上げる。

7月29日。
何も知らない日本の救出部隊は、この日、一気にキスカ島に突入する。
突入すると言っても、アメリカ軍と遭遇しないように、島影を巧みに利用して、慎重に突入している。
そして、日本軍は、キスカ島の守備隊6千人を、わずか1時間で船に乗せる。
ここに、キスカ島の救出作戦は完了する。

ここで、こぼれ話。
救出されたキスカ島の兵士たちは、船の上からアッツ島に向かい敬礼をする。
その時、どこからともなく、濃霧の中から「万歳」という声が聞こえたとか。
もしかしたら、亡くなったアッツ島の兵士たちの英霊のご加護もあったのかもしれない。

そして、7月30日。
補給を終えたアメリカ軍が、再び、キスカ島を包囲する。
しかし、アッツ島には、もう日本軍はいない。

これが、キスカの奇跡の大まかな流れです。

何て言うか、この撤退作戦、薄氷を踏む思いの連続だったと思うんですね。

・もし、日本の軍艦どおしの衝突事故が起きていなかったら
・もし、アメリカの軍艦のレーダーの誤作動が無かったら
・もし、28日にアメリカ軍が弾薬補給のための撤退をしなかったら
・何よりも、この現場指揮が木村中将でなかったら

どれか一つでも欠ければ、今回の救出作戦は、失敗したかもしれない。
そして、木村中将の指揮に敬意を表したいと思う。

今回はこの辺で。

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