方丈記に、似た運命

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立花宗茂~関が原で敗れ、唯一旧領を回復した名将

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 136
戦闘 190
智謀 102
魅力  89
野望  35

立花宗茂、どちらかと言うと、有名な方かと。
戦国最強は誰かなんて言うと、島津義弘、真田幸村、本多忠勝と同列で出てくる。
まーね、戦国最強なんて、いくらでもいるんだけど。。。
ただ、この人、忠義の士としても有名な方。
今回は、立花宗茂についてテキトーに書いていきます。

で、まずは、能力値の確認から。
まず、目立つのは、戦闘の190。
むちゃくちゃ高い。
参考までに書くと、島津義弘が194、本多忠勝が188、真田幸村が196だったか。

政治については、まー、及第点といったところか。
ただ、智謀はかなり低め。
単に智謀を駆使したイメージがないだけだろうけど。

◆立花姓になるまで
やっぱねー、立花宗茂と言えば、大友家を支える大黒柱。
斜陽の大友家にあって、最後まで大友家に忠義を貫き通した武将だと思う。

この立花宗茂さん、お父さんの名前は、吉弘鎮理。
つまり、もともとは吉弘さん。
うーん、なぜ「吉弘」から「立花」に?
知りたい?
知りたいよね!
じゃー、話を進めるね(笑)

大友家の重臣で名門に高橋という一族がいた。
それで、途中の話をすっ飛ばすけど、わけあって高橋一族が全滅する。
そのため、吉弘鎮理は、主君から高橋家を継ぐように言われた。
そして、高橋家を継いで間もなくして、出家をして「紹運」と名乗った。
つまり、「吉弘鎮理」から「高橋紹運」となった。

で、立花宗茂も、お父さんと一緒に「吉弘」から「高橋」に名前を変わった。
ただ、この時点では、まだ「立花」ではない。

その頃、大友家の重臣に、戸次鑑連という武将がいた。
これ、「べっきあきつら」って読む。
で、戸次鑑連には、一人娘がいるだけで、息子がいなかった。
で、立花宗茂が、婿養子となって、戸次家に入った。
で、この時点で、立花宗茂は、「戸次」さんとなる。
まだ、「立花」ではない。

で、いつになったら「立花」さんになるのかと思うわけだけど、次で「立花」さんになる。
実は、大友家の重臣で名門に立花という一族がいたのね。
ただ、この立花一族も、わけあって全滅したために、戸次鑑連が立花家を継ぐことになった。
そして、戸次鑑連、そのまま出家をすると「道雪」と名乗った。
つまり、「戸次鑑連」から「立花道雪」となった。
そして、立花宗茂も、ここでやっと「立花」さんとなったわけ。
「吉弘」⇒「高橋」⇒「戸次」⇒「立花」と、随分遠回りをして立花になったのね。

で、今、立花宗茂、高橋紹運、立花道雪と3人の武将が出てきたけど、いずれも大友家の重臣で、3人とも忠義の士であり、戦国最強と謳われている。
立花宗茂については、豊臣秀吉は、豊臣秀吉からも「天下無双の武将として東の本田忠勝、西の立花宗茂」、「日本無双の勇将たるべし」と評したみたい。
立花道雪については、武田信玄が「ぜひ一度会って、強さの秘訣を聞きたい」なんて言ったとか。

◆島津家との戦い
大友家には、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂と戦国最強を謳われた武将がいた。
言うなれば、大友家の三銃士。
一応書くと、立花宗茂から見て、立花道雪は義理の父、高橋紹運は実の父。

で、この3人がいたにもかかわらず、大友家は、九州制覇を目指す島津家の前に滅亡寸前まで追い込まれる。
もう、完全に、風前のともしび。
で、まずは、立花道雪が島津軍の前に立ちはだかるも、病死してしまう。

次に、高橋紹運が島津軍の前に立ちはだかり、岩屋城にたてこもる。
その兵力八百。
対する島津軍、兵力五万。

この時、高橋紹運は、立花宗茂を岩屋城には入れず、後方の城の守備に当たらせている。
分からないけど、死ぬのは自分だけでいいと思ったんじゃないかな。
この岩屋城の戦いで、大友軍は、城兵全員が討ち死にをする。
大友家では、道雪だけでなく、紹運までも失ったことで、すすり泣く声が絶えなかったとか。

また、島津軍の総大将・島津忠長も高橋紹運の死を聞くや、惜しい武将を亡くしたというと、その場に座り込んで涙を流したとか。
それなら、最初っから戦うなよって思うんだけど。。。

ただ、高橋紹運が残した功績はとても大きく、この戦いで島津軍も大きな被害を受ける。
そして、このタイミングで、豊臣秀吉が大軍を率いて大友家救援に向かう。
はじめこそ、島津家優位で戦局は進む。
しかし、白根坂の決戦で島津家は、豊臣家に大敗を喫する。
最終的に、島津家は豊臣家に降伏し、大友家も滅亡から救われる。
ただ、島津家との戦いで2人の父を失った宗茂の心中を思いやると、つらいだろうなって思うけど。。。

◆関ケ原の戦い
秀吉亡き後、天下の行方は分からなくなる。
そして、関ケ原の戦い。
時代の流れは豊臣から徳川だった。
しかし、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い切って、石田方に味方する。

このあたりは、実父・高橋紹運、養父・立花道雪の影響を色濃く受けたのだろうか。
それで、石田方の武将として、宗茂は伊勢・近江で戦う。
ところが、せっかく宗茂が味方したにもかかわらず、関ケ原の戦いは石田方が大敗する。

宗茂は一旦大阪城に引き上げると、(石田方の総大将の)毛利輝元に対して、大阪城で徳川方と戦うことを進言する。
ところが、毛利輝元に拒否されたため、本国の柳川に帰還する。
そして、関ケ原の戦後処理で、宗茂は柳川の領地を召し上げられ、そこから苦難の浪人生活が始まる。

◆奇跡の復活
領地を失った宗茂は、各地を転々とするも、最終的に徳川家に仕える。
そして、働きが認められて、陸奥国(今の福島県)に1万石の領地をもらい、ついに大名として返り咲く。
良かったね、宗茂さん、大名復帰おめでとう。
ちなみに、旧領・柳川は10万石ほどだそうで、それを思うとだいぶ少ないんだけどね。

ところが、幸運の女神が、再び宗茂さんのもとに。
大坂冬の陣、夏の陣で宗茂は、抜群の功績を上げるんですね。
その後も、幕府からの仕事をきちんとこなして、その結果・・・

旧領・柳川へ復帰!

するんです。
関ケ原で敗れてから20年、ついに柳川に戻れたんですね。
良かったね、宗茂さん、旧領復帰おめでとう。
関ケ原の戦いで敗れて領地を没収された大名の中で、旧領を回復できたのは立花宗茂だけなんだとか。
その後も、島原の乱に参加したり(乱側じゃないですよ)、将軍との良き話し相手になったりして、亡くなる直前まで活躍をしたそうです。

最後にどーでもいい話を一つ。
奥さん(立花道雪の娘)とは、仲が悪かったみたいで、道雪が病死した後、離婚したそうです。
すみません、本当にどーでもいい話で。。。

今回はこの辺で。

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