方丈記に、似た運命

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毛利勝永~戦国最後に輝いた武将

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治  62
戦闘 156
智謀 114
魅力  72
野望  40

えーっと、今回は、毛利勝永。
一般的にはマイナー武将の扱いだろうか。
ただ、一部の歴史マニアからは、絶大なる人気がある、多分。

で、さっそく、能力値を確認すると、戦闘はまーまーだけど、それ以外はダメ。
特に、政治62って、完全クソ数字。
そもそも、戦闘156だって、大坂夏の陣の活躍を考慮するなら、最低でも180はあるんじゃないの?
真田幸村よりも大活躍をしたという話もあるぐらいだし。

毛利勝永、もともとは森吉政という名前なんだそう。
うーん、全然違うぞ。。。
で、羽柴秀吉が九州平定を終えると、豊前国(今の福岡県、大分県にまたがる地域)に領地をもらう。
そして、中国地方一帯を支配する毛利氏にあやかって、名前を「森」から「毛利」に変えたんだとか。

ただ、「吉政」から「勝永」に変わった理由は、よく分からない。
そもそも、毛利勝永が出した文書は、すべて「吉政」の名前で出しているんだとか。
だから、「勝永」がどこから来たかは、全く分からない。
でも、真田幸村だって、本当は真田信繁が正しいみたいだからねー。
案外、本当の名前と世間的に知られている名前が違うことはあるのかもしれない。

それで、この毛利勝永、関ケ原の戦いでは、石田三成に味方をする。
そして、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに参加するも、関ケ原の戦いでは、毛利軍が動かなかったために、勝永も戦うことなく敗れてしまう。
その結果、領地を没収される。
そして、土佐国(今の高知県)の山内家に身柄を預けられることになる。
ただ、そこでの生活は、そんなに悪いものではなかったらしい。

1614年。
大坂冬の陣が起こる。
この時、勝永は、豊臣恩顧の大名だったこともあり、斜陽の豊臣家に味方をする。
しかし、この冬の陣では、目立つ活躍もないまま戦は終わる。

ただ、大坂冬の陣に際して、ちょっとしたエピソードがあって・・・
勝永、豊臣家に味方をすると決めた時に、妻子に向かって「自分は豊臣恩顧の大名であり、秀頼さまのために戦うつもりだが、そうすれば、残ったお前たちが大変なことになるだろう」って言うのね。
すると、妻は「主君のために働くことは大切なことです。私たちが邪魔なら、いつでも死ぬ覚悟はできています」って答えるわけ。

いやー、なかなかこんなこと言えないよ。
なんか、会津戦争の時の西郷頼母一家と重なる。
しかも、戦前は、勝永の妻は「妻の鏡」として紹介されていたんだとか。
まー、正直、今の時代では、おおよそ考えられないことだけど。。。

そして、1615年。
大坂夏の陣が起こる。
この戦いで豊臣家は滅亡する。
最後は、毛利勝永も死ぬ。
しかし、この戦いで一番活躍したのは、間違いなく毛利勝永だったと思う。

それで、ここからは、大坂夏の陣での毛利勝永の活躍について見ていきます。

1615年5月6日。
この日、道明寺の戦いが行われる。
大軍で攻めてくる徳川軍に対して、豊臣方は、後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永らが迎え撃つことになる。
しかし、この時、真田・毛利隊の到着が遅れたために、後藤又兵衛が討ち死にをする。
それで、豊臣方は、徳川方の決戦を避け、この日は大坂城に引き上げる。

この時、真田幸村は、後藤又兵衛を失ったことで落胆をしてしまったらしい。
で、幸村は、「ここを死地として、徳川方に決戦を挑もう」と提案する。
しかし、勝永は、首を横に振り「どうせ死ぬなら、明日、秀頼公の前で華々しく討死にをしよう」と言って、気落ちする幸村を慰めたとか。
そして、迫りくる徳川軍を蹴散らせながら、後藤隊の敗残兵を収容しつつ、大阪城に引き上げている。

なんてことないけど、これだけでも物語になりますね。

1615年5月7日。
この日、大坂夏の陣の最終決戦、天王寺・岡山の戦いが行われる。
豊臣方は、徳川方の大軍に完全に包囲されており、完全に劣勢モードの中で戦いとなる。
勝永も幸村も、今日、自分たちは死ぬと覚悟しただろう。
このあたりの話は、昔、真田太平記でも描かれていたんだけど、僕なんかは、思い出すだけで涙が出る。

で、作戦会議が開かれて、そこで、以下の内容を確認する。

・勝永と幸村が徳川軍をできるだけ引き付ける。
・その間に、明石全登を徳川軍の背後に向かわせる・
・秀頼公の出陣を合図に一気に徳川軍をたたく。

ところが、いくら待っても、秀頼公の姿は見えず。
しかも、そうこうしている内に、毛利勝永隊と徳川方の間で戦が始まってしまう。

この場面、真田太平記では、幸村(草刈正雄)が「毛利殿はどうして待てんのか・・・」とつぶやくシーンがあったが、実際のところ、戦闘が始まればこんなものかもしれない。

また、真田丸では、幸村(堺雅人)が、小競り合いを止めようとする勝永(岡本健一)に向かって、「いや、こうなれば一気に徳川軍を叩こう」と言うと、毛利勝永が「家康の本陣で待っている」と言って、二人が別れるシーンがあったけど、このシーンは真田丸におけるハイライトでしょうか。

この天王寺・岡山口の戦いは、正午に始まって午後3時ごろには終わる。
で、このわずか3時間、毛利勝永は縦横無尽の大活躍をするんですね。
毛利勝永は、このとき4千の兵を率いていたらしいけど、打ち破った敵を書くとこんな感じ。

・最初の敵、本多忠朝隊を攻撃。本多忠朝、討ち死。
・本多隊の救援に来た小笠原秀政・忠脩隊を撃破。小笠原秀政・忠脩、討ち死。
・その後、浅野長重、秋田実季、榊原康勝、安藤直次、六郷政乗、仙石忠政、諏訪忠恒、松下重綱、酒井家次、本多忠純などの部隊と戦うが、全て撃破。
・(資料によっては)井伊直孝、藤堂高虎の部隊を退却戦で撃破。

正確な数字は不明ながら、10以上の部隊(兵力で言うと3~4万程度か?)を撃破している。
そして、これだけの敵を打ち破りながら、家康本陣にも突入しているのね。
しかも、毛利勝永の素晴らしいところは、退却戦。

勝永・幸村の隊は、徳川方に対して猛攻撃をするも、ついに真田隊が壊滅する。
その結果、勝永隊は徳川方に囲まれてしまう。
しかし、ここでも、勝永は、豊臣方の敗残兵を収容しながら、見事に大坂城に引き上げることに成功している。
一応書くと、この日、真田幸村は討ち死をする。

1615年5月8日。
すでに大阪城は炎上し、豊臣秀頼をはじめ残された者たちは、山里丸に逃れる。
しかも、そこも徳川方に見つかり囲まれる。
そして、勝永は、豊臣秀頼の介錯をすると、息子・勝家と共に自害したと伝わる。

以上で、毛利勝永のお話は終わる。

勝永、朝鮮出兵、関ケ原の戦いで、それなりには活躍したとも聞く。
しかし、勝永の名を有名にしたのは、豊臣家最後の一日だけ。
天王寺・岡山の戦いの一戦だけ。
時間で言えば、たったの3時間。
だけど、瞬間的な輝きで言えば、戦国ナンバー1かもしれない。

今回はこの辺で。

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