方丈記に、似た運命
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河合神社の禰宜を巡る争い③
前回からの続き。
長明さん、後鳥羽上皇の推薦状があったにもかかわらず、河合神社の禰宜になれなかった。
再び、ここでも、鴨祐兼に敗れた。
大どんでん返し。
ねるとん紅クジラ団なら、こういう表現になると思う。
すみません。
いつも、たとえが古くて。
長明さんの心の内を思うと、本当にかける言葉が見つからない。
もう、本当に本当にショックだったと思う。
そりゃー、ここまで不幸な人生を歩めば、方丈記の一つや二つ書きたくなるだろうよ。
しかも、方丈記には、こういった話は全く書かれていない。
本当は、書きたかったと思うよ。
中島みゆきじゃないけど、人生の不幸をいっぱい綴りたかったと思うよ。
だいたいね、後鳥羽上皇の推薦状なんか、水戸黄門の印籠みたいなもの。
格さんが印籠を見せれば、悪人たちはみんな触れ伏すじゃないですか。
長明さんも、それと同じような効果を狙っていた。
ところが、その印籠が全く効かなかった。
全く予想だにしない展開。
でも、これなんかも、もしかしたら、長明さんが悪いのかもしれない。
自業自得。
つまり、下鴨神社の仕事をしなかった、長明さんが悪かっただけ。
もし、長明さんが、日頃から、きちんと下鴨神社の仕事をしていれば、また違った展開だったかもしれない。
もちろん、同じ展開だったかもしれないけど。。。
今回のことを意識したのかは分からない。
ただ、方丈記には、次のような文章がある。
【原文】
すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひめ、おのずから、短き運をさとりぬ。
【訳】
だいたいが生き抜くい世の中を、我慢しながら、心を悩ませて30年以上生きてきた。
その間、節目節目で挫折をし、自分の人生の運の無さを思い知らされた。
「折々のたがひめ」には、今回のことも含まれているのかもしれない。
だとすると、今回のことで、長明さん、神職の道へのとどめを刺されたのかもしれない。
やはり、長明さんには、運がなかったのだろうか。。。
ところが、ここで、後鳥羽上皇が少し考える。
そこには、長明さんを河合神社の禰宜にしてやることができなかったことに対する責任を感じていたのかもしれない。
少なくとも、悪いことをしたという思いがあったのではないか。
また、後鳥羽上皇は、少しでも長明さんの願いを叶えてやりたかったのかもしれない。
多分、長明さんのことを気に入っていたんだと思う。
それで、後鳥羽上皇、下鴨神社の末社の一つの格式を上げてまでして、長明さんをそこの禰宜にしようとした。
後鳥羽上皇からすると、せめてもの償いであり、ご褒美だったかもしれない。
長明さんの本意ではないかもしれないが、神職の道は開かれるだろうと。
で、それに対する長明さんのお返事がこれ。
【原文】
なほ、もとより申す旨、違ひたり。
【訳】
これでは、はじめ話していた話と違う。
長明さん、早い話が、話が違うと言って断ったわけ。
これ、何となく、分からなくもない。
むしろ、僕なんかは、すごく分かる気がする。
長明さんは、性格的に融通が利くようなタイプではなかった。
一度こうだと思えば、それを曲げられるような器用さはなかった。
きっと、根は真面目だったんだと思う。
悪く言えば、意固地か。
ただ、長明さん、和歌所寄人まで辞めてしまった。
うーん、まじか。。。
普通の人なら、驚くかもしれない。
別に、仕事は仕事として、辞めなくても良いとふつーはそう思う。
でも、長明さんは、和歌所寄人の職さえも捨ててしまう。
このあたりは、長明さんらしいなーって思うけど。
このあたりも、僕にはすごく分かる。
多分、僕でも、辞めると思う。
長明さん、どちらかというと激情型の人間だった。
その場その場、あるいは瞬間瞬間の気分を大切にするタイプ。
そして、オールオアナッシング的な性格。
グレーゾーンがなかった。
0か100かのどちらかの性格。
自分の理想から少しでも離れると、それはもう自分の理想ではなかった。
これ、僕にもそう言うところがある。
だから、なんとなくだけど分かる気がする。
長明さんは、理想が高いのかもしれない。
そして、その分、うまくいかなかった時の反動が大きいのではないか。
つまりは、やけのやんぱち。
この時の様子を、源家長は「さほどこわごわしき心」と書いている。
訳すと、「これほど強情だったとは」となる。
源家長にも、長明さんの姿は、強情だと映ったのだろう。
そして、長明さんは、和歌所寄人の職を捨てると、大原に移り住む。
当時、大原は、出家者が多数住んでいる地域だったらしい。
神職の道が完全に断たれた長明さんにとって、大原は最期の安住の地だったのかもしれない。
ところが、後鳥羽上皇は、長明さんの才能を認めていたのか、使者を送り、自分のところへ戻るように伝える。
そして、長明さんは、次のような和歌で返事をする。
【原文】
沈みにき 今さら和歌の 浦波に よせばやよらん あまのすて舟
【訳】
沈んでしまった船のように、自分の心も深い海の底へと沈んでしまった。
今更、和歌の波に揺られたところで、和歌所寄人の職に戻ることはできない。
自分は海に捨てられた小舟のように、どこかを漂うだけである。
長明さん、たとえ相手が後鳥羽上皇でも、「自分のことはほっといてくれ」という気分だったのだろう。
それぐらいショックだったんだと思う。
まーね、今まで、負け組の人生を送ってきた者が、ほんの一瞬だけど、カウンターパンチが決まりそうになった。
そして、人生の逆転勝利が見えた次の瞬間、ノックアウト負けをする。
うーん、かけてあげる言葉もない。
もし、これが、ふつーの人生を送ってきた者なら、ここまで落ち込むことはなかったかもしれない。
しかし、長明さんの場合、節目節目で挫折をして、ずーっと負け続けの人生。
今までの人生、何一つ良いことがなかった。
そういう過去があっての今回の負け。
これで、長明さんの神職の道は、完全に消えた。
今回はこの辺で。
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