方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む、その後、

【原文】
我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む、その後、縁欠けて身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに跡とむることを得ず、三十余りにして、さらに我が心と、一つの庵を結ぶ。これをありし住まひに並ぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋を造るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。

【訳】
ここからは私の身の上についてお話をしようと思う。私は、父方の祖母の家を相続するということで、長年そこに住んでいた。しかし、その後、色々とあって縁が切れ、社会的にも経済的に没落してしまい、心残りはあったけれども相続については諦めることにした。三十歳を過ぎてから少し思うところがあって、一つの小さな家を造った。

以前住んでいた家と比べれば十分の一の大きさである。ただ自分が寝起きするだけに必要な家を造ったに過ぎず、立派な家からは程遠いものだった。何とか、土塀は作ったが、門を建てるだけのお金はなかった。竹を柱にして牛車を入れる場所とした。こんな小さな家なので、雪が降って風が吹く度に倒壊の危険があった。また、賀茂の河原からも近かったため洪水に遭うことも多く、強盗に襲われる危険もあった。

【わがまま解釈】
ここからが、いよいよ後半の山場になる。
まー、僕の中ではだけど。
学校の授業だと、冒頭だけを読んで終わる。
うーん、もったいない。
最後まで読まないとね。

特に、後半部分って、長明さんが、自分のことについて書いている。
まー、あまり多くは語られていないけど。
ただ、これを読むことで、少し、長明さんの人物像が分かってくる。
これを読むと、僕は、長明さんにとても親近感がわいてくる。

それで、今回のお話の前半部分。

私は、父方の祖母の家を相続するということで、長い間、その家に住んでいた。
ところが、色々とあって縁が切れて、社会的、経済的に没落してしまった。
そして、心残りはあったけど、相続を諦めることにした。
そして、30歳を過ぎてから、一つの小さな家を造った。

これを読むと、長明さん、どうして、家を出ることになったのかが気になる。
原文には「縁欠けて身衰へ」とある。
僕なんかだと、「えっ、なに?なに?何があった?」ってなる。

長明さんのお父さんは、下鴨神社の正禰宜惣官だった。
ところが、長明さんが17歳の頃に、そのお父さんが若くして亡くなる。
長明さん、相当ショックだったらしくて、父の後を追って自分も死にたいという和歌を詠んでいる。
別にそこまで落ち込まなくてもと思うんだけど。。。

どうやら、当時は、出世するには有力な身内の存在が必要不可欠だったらしい。

具体的に言うと、まずは、父親の存在が重要だったらしい。
次に、兄弟がいる場合だと、生まれた順番とか母親の身分。
例えば、平清盛の子どもである平重盛と平宗盛。
長男は重盛だけど、母親の身分は宗盛の方が高かったり、重盛が早死にしたことで、清盛亡き後、宗盛の一門が平家一門を束ねることになる。

例えば、奥州の覇者の藤原秀衡の子どもである藤原国衡と藤原泰衡。
長男は国衡だけど、泰衡の方が正室の子ということで、秀衡の後を継いだのは泰衡だった。
ただ、平宗盛と藤原泰衡、二人とも源頼朝によって滅ぼされている。

それで、長明さん、21歳の頃、下鴨神社の正禰宜惣官を巡って、同族の鴨祐兼と争うんだけど、これに敗れた。
どうやら、お父さんがいないことで、長明さんを支援する有力者がいなかったらしい。
これによって、長明さんは、神職の道をあきらめてしまう。

それで、長明さんの20代って、正直、不明な点が多い。
ただ、五大災厄のうち、元暦の地震以外の四つは、長明さん20代のできごとなので、若い頃の長明さんは、色々と平安京とか福原京を歩き回っていたのだろう、多分ね。
また、30歳になるまでには、俊恵法師に弟子入りして和歌を習っていたらしい。
もしかしたら、音楽についても、この時期に習っていたのかもしれない。
これは、分からないけど。。。

それで、このブログでもたまに出てくるけど、源家長が残した源家長日記。
これによると、長明さんは、

「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが・・・」

とある。
意味としては、

だいたい、この長明さんは孤児で、下鴨神社の仕事もせずに誰とも交流することがなく、部屋にずーっと籠ってばかりいた

といたっところ。

分からないけど、下鴨神社の仕事はしないのに、趣味の和歌や音楽に没頭したり、何か事件があるとそれを調査しに家を何日も空けるような毎日を送っていたのではないだろうか。

長明さんが独身で、一人その生活を楽しむ分には問題ない。
ところが、長明さん、妻子がいた(らしい)。
長明さんの残した和歌には、妻子がいたと思われるものがいくつかある。
多分だけど、長明さんには、妻子がいたのだ。

ということは、妻子がいるにもかかわらず、仕事をしないとなると、これは大問題。
長明さん、「縁欠けて、経済的にも社会的にも没落をして、心残りではあったけど相続をあきらめた」らしいけど、奥さんから三下り半を突きつけられたというのが、どうも真相らしい。
あるいは、父方の祖母の家を相続することになってはいたものの、それを認めてくれていた身内、例えば、妻、母、祖母とかの誰かが亡くなったことで、状況が変わったのかもしれない。

長明さんは、思い出の詰まったその家を出たくなかった。
ところが、どうしても出て行くしかなかった。
長明さんの自業自得かもしれないけど、苦しい胸の内を垣間見たような感じがする文章だと思う。

そして、30歳を過ぎて、一つの小さな家を建てる。
この家、父方の祖母の家と比べると十分の一の大きさだとか。
うーん、父方の祖母の家ってどれぐらい大きかったんだ?
寝殿造りの立派なお屋敷だったとか?

ちなみに、長明さん、方丈の庵に引っ越した際は、前の家と比べて百分の一の大きさになったと書いている。
もう本当に、父方の祖母の家はどれぐらい大きかったんだって突っ込みたくなる。

それで、長明さんの造った家だけど、自分が寝起きするだけに必要な家を造ったらしい。
だから、全然立派ではなかったとか。

・土塀は作ったが、門は作れなかった。
・(質素な)竹を柱として牛車を入れる場所にした。
・家が小さいので、雪が降って風が吹く度に倒壊の危険があった。
・賀茂川から近いため洪水に遭うこともあった。
・強盗に襲われる危険もあった。

などと、新しい家について、色々とコメントしている。
うーん、なんだろう。
軽い欠陥住宅のような感じもするけど。
まー、それでも、庶民の家と比べると全然ましだったとは思うけど。

そして、長明さんは、ここから第二の人生を歩むことになる。
で、少しは心を入れ替えて、働くのかなと思いきや、全く働かなかったらしい。
しかも、30代半ばには、熊野・伊勢に旅行をしている。
うーん、本当にあちこち歩き回るのが、好きな人なんだなー。

というわけで、今回はこの辺で。

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