方丈記に、似た運命

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足利尊氏②~輝くか、狂うか

前回の続きです。

今回のテーマは、輝くか、狂うか。

足利尊氏は、もともとは、鎌倉幕府に仕える有力な御家人の一人だった。
で、鎌倉幕府の中でも、その地位は、優遇されていたらしい。

それで、鎌倉時代末期になると、皇位継承問題を理由に、後醍醐天皇が倒幕をする。
実は、この後醍醐天皇、過去にも倒幕を計画していた。

1度目・・・正中の変。計画段階で失敗。
      近臣が処分され、後醍醐天皇はおとがめなし。

2度目・・・元弘の乱。挙兵して失敗。
      後醍醐天皇は、今度は、隠岐の島に島流しとなる。

3度目・・・倒幕成功。鎌倉幕府滅亡。

それで、後醍醐天皇、2度目の倒幕の時は、足利尊氏、新田義貞といった幕府軍に攻められている。
ところが、3度目の倒幕の時は、足利尊氏、新田義貞といった武将たちは、こぞって鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇に寝返っている。
尊氏が、鎌倉幕府を裏切った理由は分からない。
父の喪中にもかかわらず、鎌倉幕府が出陣命令を下したことに、不信感を募らせたという話もあるみたいだけど。
何か理由があったかもしれないし、単なる気の迷い、単に狂っただけかもしれない。

で、後醍醐天皇の倒幕は成功する。
で、足利尊氏は、後醍醐天皇から勲功第一として、たくさんのご褒美をもらう。

ところが、後醍醐天皇の建武の新政。
すこぶる評判が悪かった。
特に、武士層からは、総スカンを食らう。
しかも、後醍醐天皇を支持する者たちからも、批判の声が出る。

そのタイミングで、旧鎌倉幕府の残党が、鎌倉を奪い返すという事件が起きる。
尊氏、後醍醐天皇の許しも得ないままに、勝手に討伐をすると言って、鎌倉に向かってしまう。
しかも、反乱軍を鎮圧すると、そのまま鎌倉に居座ってしまう。
何でこんなことをしたんだろう。。。

で、それを聞いた後醍醐天皇、当然、快く思うわけがない。
勝手に兵を動かし、しかも鎌倉を支配するなど、謀反も同然。
で、後醍醐天皇、尊氏討伐の命令を出す。

慌てたのは、尊氏だった。
これだと、完全に朝敵となってしまう。
尊氏、よほどショックだったのか「自分は世捨て人となり、出家します」というと、お寺に引きこもってしまう。

で、尊氏が出家騒動を起こしている間、弟の足利直義が陣頭指揮を執るも、各地で苦戦をする。
で、その報告を聞いた尊氏、「直義が死ねば、自分だけが生き残っても意味ねー」と言うと、一転して後醍醐天皇と戦うことを決断する。
そして、神がかりの強さで敵を打ち破ると、一気に都に攻め上る。
その結果、後醍醐天皇は、都を放棄して奈良の吉野へ逃げる。
で、後醍醐天皇、この吉野の地で朝廷を開く。
それが南朝。

一方の足利尊氏。
都に入ったものの、後醍醐天皇と敵対しているので、権力の正当性がなかった。
で、尊氏、後醍醐天皇と対立していた光明天皇を立てて、北朝を成立させた。
そして、尊氏自身も光明天皇から征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を立てた。
こうして、足利尊氏は、武家の頂点に立つ。
足利尊氏は、輝いた。

ちょうどこの頃、足利尊氏は、清水寺に文を納めている。
そこには「自分は、もう世の中を離れてひっそりと生活したい。あとは弟たちに任せたい」といったことが書かれてあるんだとか。
絶頂期にこんなことを願うなんて、尊氏は、きっと疲れていたんだろうと思う。

そして、尊氏が征夷大将軍に任命された翌年には、後醍醐天皇が吉野で亡くなる。
後醍醐天皇もまた、尊氏同様、疲れていたのかもしれない。
で、この時、尊氏は、後醍醐天皇を供養するために、わざわざ京都にお寺を建てている。
しかも、それだけではなかった。

昔、聖武天皇が、全国に国分寺を立てたように、尊氏は、後醍醐天皇のために(まー、広く言えば、自分と後醍醐天皇の戦いの中で死んでいった者たちのために)、全国に安国寺を建てている。
分からないけど、ふつー、敵対した相手に対して、手を合わせることはあっても、ここまではなかなかできないですよ。
尊氏の中には、たとえ敵対したとはいえ、後醍醐天皇を慕う思いがあったかもしれないですね。
ただ、あえて、あえて言うと、後醍醐天皇のためとはいえ、全国にお寺を建てていたら、民衆からの反発も大きかったと思うけど、どうなんでしょうね。。。

それで、後醍醐天皇が亡くなったことで、足利尊氏の戦いもこれで終わりと思いきや・・・
むしろ、ここからが第二幕。
そして、ここからが面白い展開となる。

当時の室町幕府、トップメンバーは、足利尊氏、足利直義(尊氏の弟)、高師直(室町幕府重臣)の三人だった。
で、ここで、頂上決戦(内部闘争)が行われる。

まず、足利直義と高師直の間で、争いが起きる。
で、直義が高師直を襲うんだけど、これに失敗してしまう。
で、あっさり形勢逆転。
逃げ場を失った直義は、尊氏の屋敷に逃げ込む。
で、高師直の兵が尊氏の屋敷を取り囲み、直義の引き渡しを要求する。

最終的に、尊氏が、直義を隠居させることで、この争いは終わりとなる。
ただ、高師直は怒り狂っていたのか、この争いの中で、直義の重臣を二人暗殺したとか。
すると、このことに怒り狂ったのか、今度は、直義が怪しい動きを見せ始める。

でも、直義は隠居する約束だったはず。
で、高師直からの要求もあったかもしれないけど、尊氏、北朝に働きかけると、北朝から直義討伐令が出される。
で、直義、室町幕府だけでなく北朝とも敵対することになる。
それで、逃げ場を失った直義がどうしたかというと、まさかの南朝への降伏。
そして、南朝方として、尊氏・高師直と戦うと、今度は、直義がこれに勝利する。

再び、形勢逆転。
そして、直義は、尊氏に高師直の処分を要求し、最終的に、高師直は暗殺される。
で、直義は、南朝方としてさらに勢力を拡大する。

で、尊氏、直義の動きを封じ込めようとするも、なかなかうまくいかなかった。
そこで、尊氏、直義と南朝の関係を分断することを思いつく。
そして、尊氏がやったことが、まさかの南朝への降伏。

えーっと、分かりますか?
尊氏も直義も、室町幕府、北朝の創始者であり立役者。
にもかかわらず、兄弟そろってまさかの南朝への降伏。
もーね、意味が分からない。

しかも、尊氏の南朝への降伏は、事実上の北朝の南朝への降伏。
実際に、この時の北朝の天皇は、南朝に捕まり軟禁状態に置かれたとか。

で、南朝に降伏した尊氏は、今度は、南朝に対して直義討伐令を出させる。
で、ここに至って、ついに、直義は尊氏に降伏する。
そして、程なくして直義は亡くなる。

こうして、足利尊氏、足利直義、高師直の争いは、最終的に足利尊氏が勝ち残ったことで終焉を迎える。
いやー、日本史で足利尊氏ほど「輝くか、狂うか」がピッタリの人間もいないと思うよ。
最後に書くと、足利尊氏、戦前は、後醍醐天皇に逆らったということで、逆賊扱いをされていたそうですよ。

今回は、この辺で。

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