方丈記に、似た運命

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南朝と北朝~日本史上最高のドタバタ劇か

今回のテーマは、南朝と北朝。

えーっと、前回まで、足利尊氏について書いてきた。
覚えていますか?
で、内容的には、それを焼き直した感じとなる。

そもそも、南朝と北朝を知らない人も多い。
これは、朝廷が、南(吉野)と北(京都)とで二つ存在していたということなのね。

南朝・・・後醍醐天皇をトップとする朝廷。
     吉野を本拠地としたために南朝と呼ばれる。
北朝・・・光厳天皇をトップとする朝廷。
     京都を本拠地としたために北朝と呼ばれる。

ところで、天皇が二人って、おかしい。。。
でも、過去をさかのぼると、天皇が二人存在した時代はあった。
それは、安徳天皇と後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)の二人。
この時は、天皇が二人並立した期間は、2年。
でも、今回は、天皇が二人並立した期間は、約60年。
まーまー長い。

例えば、朝廷と幕府が並立することは、ふつーにある。
しかし、朝廷と朝廷が並立したのは、この時代だけ。

で、朝廷が二つに分かれる原因は、朝廷にあった。
鎌倉時代の後半、朝廷は、大覚寺統と持明院統の2つの系統があったらしい。
で、交替で天皇を出していた。
つまり、この時点で、朝廷は、内部分裂の状態だったのね。

で、天皇が大覚寺統の後醍醐天皇の時。
後醍醐天皇は、このままずっと大覚寺統から天皇を出そうと考えて、鎌倉幕府を倒そうとした。
ところが、失敗したために、後鳥羽天皇は、隠岐の島に流される。
そして、代わって、持明院統の光厳天皇が天皇となる。

ところが、後醍醐天皇、隠岐の島から脱出すると、再び、鎌倉幕府を倒そうとした。
で、ついに、鎌倉幕府を倒すことに成功する。
で、世に名高い「建武の新政」を行う。

ところで、後醍醐天皇、光厳天皇に対して、「お前は、私が島流しにあっている間の仮の天皇」と言って、正式な天皇と認めなかった。
さらに、「一応、上皇としての地位は認める」と言うと、光厳天皇を天皇の地位から追いやり、再び、自分が天皇の地位に就いてしまう。

ところで、この建武の新政、かなりの不評だった。
例えば、後醍醐天皇の忠臣の一人だった北畠顕家は、建武の新政の問題点を書状に書いている。
例えば、後醍醐天皇の倒幕に、最も功績のあった足利尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻した。
で、後醍醐天皇は、全国に足利尊氏の討伐令を出した。

ところが、後醍醐天皇、官軍にもかかわらず、足利尊氏に敗れる。
後醍醐天皇に味方した新田義貞、北畠顕家、三木一草と称された人たちも、みんな討死をした。
で、後醍醐天皇、京都防衛をあきらめた。
そして、京都を脱出すると吉野へと落ち延びた。
で、そのまま、そこで朝廷を開いた。
これが、南朝。

一方、足利尊氏。
後醍醐天皇の軍勢を破り、京都に入ったものの、後醍醐天皇を敵としたために、立場としては賊軍のまま。
だから、自分たちの正当性を主張できないままでいた。
もちろん、後醍醐天皇と仲直りというのもありだった。
しかし、ここで、足利尊氏は、思い切った手を打った。

それは、光厳天皇の担ぎ出し。

光厳天皇、後醍醐天皇から天皇としての地位は認められていないけど、上皇としての地位は認められていた。
で、足利尊氏は、この光厳天皇を担ぎ出して、光厳天皇の弟・光明天皇を頂点とする朝廷を京都に開いた。
これが、北朝。
で、足利尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任命される。
そして、室町幕府を開く。

こういう流れがあって朝廷が、北朝(京都)と南朝(吉野)に分裂するのね。

ところが、できたばっかりの室町幕府、これもまた分裂していた。
足利尊氏を頂点としながらも、実際の政治は、足利直義(尊氏の弟)が仕切っていた。
また、実際の行政処理は、有力家臣の高師直が行っていた。
室町幕府は、この3人が互いに争っていたのね。

まとめると、次のような感じ。

朝廷・・・・・北朝vs南朝
室町幕府・・・足利尊氏vs足利直義
       足利尊氏vs高師直
       足利直義vs高師直

うーん、対立軸が多すぎるなー。


しかも、ここからが、さらに事態を複雑にしていくのね。
まず、足利直義と高師直が争う。
足利直義は、高師直を襲うんだけど、これを失敗してしまう。
すると、今度は、高師直が反撃に出て、足利直義を襲った。
で、直義は、兄・尊氏の屋敷に逃げ込む。

それで、この争いの間、尊氏が何をしていたかと言うと、仏道を目指していたらしい。
というのも、尊氏、後醍醐天皇に背いたことを後悔していたらしいのね。
しかも、後醍醐天皇が亡くなったことを知ると、全国に安国寺というお寺を建てたりしている。
尊氏って、後醍醐天皇と対立したかと思えば、後醍醐天皇を偲んでみたり、後醍醐天皇のこと、好きなのか嫌いなのかよく分からない。

話を戻して、足利直義と高師直の争いは、尊氏が、直義を隠居させることで、一旦は落ち着く。
しかし、裏では、直義が不穏な動きをしていた。
で、足利尊氏は、北朝に働きかけると、北朝から直義討伐令が出される。
で、討伐令を出された直義がどうしたかというと、まさかの南朝への降伏。

一応書くと、足利直義は、室町幕府の人間で、北朝方の人間。
で、足利直義、南朝方に鞍替えすると、あっと言う間に勢力を拡大して、足利尊氏・高師直を打ち破ってしまう。
そして、高師直は、殺されてしまう。

それで、これで、争いが終わるかと思うと、そうでもなかった。
今度は、足利尊氏と足利直義の兄弟対決が始まる。
始めの頃は、南朝と手を結んで勢力を拡大する直義の方が優勢だった。
そこで、尊氏は、直義を倒すためにウルトラCの行動に出る。

それが、何かというと、
「尊氏、まさかの南朝への降伏」
だった。

うーん、意味が分からない。
どうも、尊氏は、南朝へ降伏する代わりに、南朝からも直義討伐令を出すように依頼したらしい。

でも、尊氏の南朝への降伏は、事実上の北朝の南朝への降伏。
あのさー、何のために北朝を作ったのって言いたくなるけど。
で、これによって、北朝の歴代天皇たちが、吉野へと護送されて軟禁状態となる。

ただ、これによって、足利直義は、少しずつ勢力に陰りが見え始める。
そして、最期は、尊氏との直接対決に敗れて、直義は捕まってしまう。
その後、原因不明のまま、直義は亡くなる。
こうして、室町幕府の内部抗争は、足利尊氏が勝ち残ることで終わることになる。
ちなみに、北朝と南朝の抗争は、足利義満の時代に終わる。

今回はこの辺で。

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