方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―


アドラー心理学②

前回からの続き。

●課題の分離
課題の分離というのは、アドラー心理学の重要なキーワードなんだそう。
嫌われる勇気の中でも、かなり説明がある。
それで、この課題の分離だけど、次のようなものらしい。

・課題が他人の課題である場合・・・自分は他人の課題には介入しない。
・課題が自分の課題である場合・・・他人を自分の課題に介入させない。

うーん、これだけではよく分からない。

嫌われる勇気の中では、子どもの宿題の話があった。
子どもの宿題は子どもの課題。
当たり前だけど。
それで、子どもが宿題をしないと、親としてはどうなりますか?
「宿題をしなさい」と怒ったり、無理やり宿題をさせたりしないですか?

これ、課題の分離からすると、ダメなことらしい。
子どもの課題は、あくまでも子ども課題。
だから、たとえ親であっても、子どもの課題に対して「あーしなさい」、「こーしなさい」というのは、課題の分離という点からはダメなことらしい。

じゃあ、どうすればいいのか。
放っておくのがいいのか。
「これは子どもの課題だから、親は関係ありません」と放っておくのも良くない。

この場合、「援助」をするのがアドラー心理学の立場なんだそう。
援助というのは、「困ったことあれば、いつでも相談してね。助けるよ」っていうもの。
例えば、子どもが宿題をしなくても、「宿題をしていて、分からないことがあれば聞いてね」と声かけをする。
子どもの意思を尊重して、決して強制はしないけど、困った時はいつでも助ける用意をしておくということ。

岸見一郎さん、良好な人間関係を作り上げるための第一歩は「課題の分離」にあると言っていた。
つまり、その課題が誰の課題かを考えること。

・自分の意思に反して、自分の課題の中に他人を入れない。
・相手の意思に反して、相手の課題の中に自分が入らない。

これだけで、人間関係はだいぶすっきりするという。
それで、嫌われる勇気の中では、課題の分離が強調されていて、援助についてはあまり記載がないように思われた。
分からないけど(特に)親子関係で、親が子どものことで口出しをする悪影響を考慮した結果、課題の分離の記載量が多くなったのではないか。

ちなみに、嫌われる勇気の中では書かれていなかったけど、課題の分離については、「共同の課題」という概念もあるんだそう。
さっきの子どもの宿題の話で言うと、「お前が勉強をしないならそれでもいいけど、勉強は必ず役立つから、勉強することについてちょっと話をしないか?」といった感じ。
つまり、本来は、存在する課題に対して、

・共同の課題(共同して課題を解決する)
・課題の分離(本人だけが課題を解決する)
・援助(課題の分離をした場合に、サポートをする)

といった感じで三つの選択肢があるんだとか。

●目的論
目的論というのは、哲学としての用語だったらしい。
それで、この目的論という概念を作ったのは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスだという。
それで、もともとの目的論というのは、存在論に対する概念だったそう。

つまり、

存在論:この世界の「実体・本質」的存在が何であるかを探求する考え方
目的論:人間を含む諸存在が、(究極的に)どこに向かって存在・活動しているのかを探求する考え方

ということになるらしい。

それで、アドラー心理学で言うところ目的論は、基本的には、哲学の目的論と同じなんだとか。
ただ、存在論じゃなくて因果律(あるいは原因論)に対する概念らしい。

つまり、

因果律:原因と結果をセットにして探求する考え方
目的論:その人の目的を探求する考え方

ということになるらしい。

嫌われる勇気の中では、次のような話があった。

引きこもりの子がいる。
それで、老人が「引きこもりの子が、ひきこもってしまう理由は何だと思いますか?」と青年に質問する。
そして、青年が答える。
「いじめとか、家庭内不和とか、よくは分からないけど、そんなのではないか」と。

それで、老人の見解は、こうだった。
「家の外に出たくないから、引きこもっている」と。
しかも、家の外に出ると不安になったり、めまいがしたり、吐き気がするのも、全ては家の外に出ないようにするために、そういった症状を作り出していると。

さらに、老人は続けて言う。
「原因論で原因が分かったとして、何も解決はできない。それよりも、その人の目的を調べて、もっと適切な目的があるのなら、そっちに目的をシフトさせた方が良い」と。

それで、今、老人が話したような内容が、目的論らしい。
原因論ではなくて目的論の立場で、治療を試みるのがアドラー心理学の立場らしい。

確かに、考え方としては面白い。
ちょっとしたショック療法みたいな感じもする。
僕なんかでも「あっ、そうだったのか!」となると思う。

ただ、実際に、引きこもっている状況で、「家の外に出たくないから、引きこもっている」と言われても、僕なら「出たくても出られないんだよ」と言うと思うけど。
好きで引きこもる奴なんていないと思うよ。

ちなみに、アドラー心理学、トラウマの存在も認めない(重視しない)らしい。
あくまでも目的論での治療を試みているらしい。
このあたりは、少し疑問がないわけでもないけど。。。

●共同体感覚
アドラー心理学では、課題の分離がスタートで、共同体感覚がゴールとなるんだそう。
それで、この共同体感覚というのがよく分からないけど、本の中では、次のように書かれている。

「他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられること」

共同体とは何でもよくて、家庭、職場、学校、地域、未来、過去、宇宙、あるいは自分が所属している何かの集団など、もう本当に何でもありのようです。
それで、自分自身が、その集団の中で生き生きと活動ができている。
そして、そのことが集団のためにもなる。

アドラーが最終的に目指したのは、こういう社会なんだとか。

アドラー自身は、小さい頃、まーまー体が弱かったらしいのね。
だから、みんなができることでも自分にはできないということが、あったかもしれない。
だとしても、自分がどこかの集団に属することができるなら、それだけで生きていけると考えたのではないだろうか。
つまり、こんな自分でも集団の中で楽しく生きているという感覚。

ただ、この共同体感覚は、心理学の範囲を超えているように思うけど。。。
余談だけど、アドラーは世界で初めて児童相談所を作った人らしい。
アドラーは、単なる心理学者ではなくて、社会のありようを模索していたのだろう。

最後、共同体感覚は、やっつけ仕事になりました。
すみません。

今回はこの辺で。

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