方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。

【原文】
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。

【訳】
かつては家々がびっしりと軒を連ねていた平安京の町並みも、日を追うごとに荒廃していった。家は解体され、淀川に浮かべられ、そのまま福原へと運ばれた。解体された家の跡地は畑に変わった。人の心も様変わりし、武家風に馬や鞍を大事にするようになり、貴族風の牛や車を大事にするものはいなくなった。しかも、人々は西日本の領地をもらうことを望み、東北地方の荘園をもらうことを嫌がった。

【わがまま解釈】
引き続き、今回も福原遷都のお話。
福原遷都に伴って、色々な変化が起きたことを書いてある。
分かりやすく書くと、次のような感じか。。。

◆平安京の街並み
以前はびっしりと家々が軒を連ねていたが、日を追うごとに荒れていった。

◆土地
以前は家が建っていた場所に畑ができた。

◆家そのもの
平安京の家が解体されて、福原に運ばれた。

◆人の心(風俗)
以前は貴族風を好んだが、今では武家風を好むようになった。

◆領地
西日本の領地を欲しがるようになり、東北の領地は嫌がるようになった。

で、これを見ると、福原に家を建てるといっても、新しく家を建てるんじゃなくて、平安京の家を解体して、それを淀川に流して運ぶとあるのね。
分からないけど、これが当時の引っ越しの仕方だったんだろう。
でもね、家を解体して、淀川に流して、福原で再度立て直して、これで、ちゃんと家になるんだろうか。
ちゃんと使えるのか?

また、人の心も様変わりしている。
以前だと、牛や車を大事にしていたが、今では馬や鞍を大事にしている。
つまり、風俗が、貴族風から武家風へと変化したんだろう。

さらに、領地にしても、西日本を欲しがるようになり、東北を嫌がるようになったとある。
別に、領地なんかあまり辺鄙でなければ、どこだって良いと思うけど。。。
まー、平家の勢力が及ぶ範囲で、領地が欲しかったんだろうか。

ただ、当時って、西国は開発されていたけど、東国は未開の地だったと思う。
特に、東北地方は、奥州藤原氏が治めていたけど、都の人たちからすると「東北は鬼が住むところ」ぐらいにしか思っていなかったなんじゃない?
ということは、やはり未開の地の領主になることよりも、ここはこういう土地という風に、分かっているところの方が好まれたのかもしれない。

また、平清盛は、日宋貿易を推進していて、瀬戸内海の航路の整備、港の整備も行っている。
つまり、西国に領地をもらった方が、日宋貿易の恩恵を受けやすいのではないか。
みんなが西国の領地を欲しがった理由には、こういった面もあったのかもしれない。
でもね、たぶん、きっと。。。

ちなみに、平家物語では、福原遷都について次のように書いてある。
まー、僕の独断と偏見による訳で申し訳ないけど。。。

平安京は、本当に素晴らしい都だった。
平安京を守護する神仏が、柔らかい光を放って平安京を包んでいた。
霊験あらたかなお寺では、都の通りで屋根を並べていた。
平安京で暮らす人たちは、なんの悩みもなく、各地への交通の便も良かった。

ところが、福原京では、通りは整備されておらず、車が通ることも簡単ではない。
たまに、往来する人も、小さい車に乗って、う回路を使っている。

かつては家々がびっしりと軒を連ねていた平安京の町並みも、日を追うごとに荒廃していった。
家々は解体されて運んだ後、鴨川、桂川に流し、家財道具は舟に積んで、福原へと運ばれた。

ただただ、花の都が廃れていくことが悲しかった。
誰が書いたのか、平安京の内裏の柱に、二首の歌が書かれてあった。

ももとせを 四かへりまでに 過ぎ来にし 愛宕の里の 荒れやはてなん

咲き出づる 花の都を 振り捨てて 風吹く原の 末ぞあやふき

僕の乱暴な訳だけど、これを見ると、平家物語でも平安京の素晴らしさが書かれてある。
方丈記では「玉敷き都」。
平家物語では「花の都」。
しかも、神仏に守られて、柔らかい光で包まれていたとある。
しかも、都の通りはお寺があって、そのお寺の屋根が並んでいたとある。
なんか、陰陽師の世界じゃない?

ちょっと話が飛ぶけど、陰陽師の話をしていい?
ちょっとだけだから。

陰陽師というと、一時期、安倍晴明がブームとなった。
で、この安倍晴明、陰陽道を賀茂忠行、賀茂保憲から学んでいる。
で、賀茂忠行は慶滋保胤の父、賀茂保憲は慶滋保胤の兄。
慶滋保胤は、鴨長明のご先祖様だから、賀茂忠行、賀茂保憲も鴨長明のご先祖さまってわけ。
こういうところで、鴨長明と安倍晴明がつながるのね。

すみません。
話を戻します。

平家物語でも、平安京の評価はとても高い。
でもね、いつも書くけど、慶滋保胤の池亭記には、右京は廃れていたと書いてある。
人が出て行くことはあっても、入ってくることはないとか、建物が壊れることはあっても、新たに造り直すことはないとか、そんなことが書かれてある。
実は、平安京の衰退は、平安時代の中期ごろには起きていたんじゃないのか。

また、これもいつも書くけど、当時の平安京は、保元の乱、平治の乱、以仁王の反乱とか、とにかく戦いが多かった。
また、安元の大火、治承の大火、治承の竜巻など、災害も多かった。
やはり、平安京は、平安美からイメージされるような美しいものではなく、だいぶ劣化した都市だったのかもしれない。
まー、当時の他の都市と比べれば、その華やかさは群を抜いていたとは思うけど。。。
あるいは、「腐っても鯛」だったのかもしれない。

それで、平安京の内裏の柱に、二首の歌が書かれていたらしい。
それを訳すと次のような感じ。

四百年を過ぎた平安京が、荒れ果ててしまっている。

一応書くと、ももとせは百年で、四返りなので四百年。
愛宕の里は平安京があった地名(郡)。

花咲く花の都を捨てて、福原に行ったところで将来は危ないだろう。

一応書くと「風吹く原の」は「福原」がかかっている。
福原は海のそばなので、かなり風が強いのだと思う。
それで、福原京もの将来も危ないと心配している。

つまり、旧都(平安京)は荒れ果ててしまい、新都(福原京)には希望を見いだせないといった当時の人々の心境が、この和歌には込められているんだと思う。
まー、結局、福原京は、わずか半年の幻の都で終わってしまうんだけど。

今回はこの辺で。

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