方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、

【原文】
又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。

【訳】
また、記憶が確かであれば養和の頃であったと思うが、だいぶ昔のことなのではっきりと覚えているわけではないのですが、二年の間、大飢饉が続きとんでもなく深刻な状況になったことがあった。ある年には春と夏に日照りが続き、また別の年は秋と冬に台風や洪水などがあり、次々と災害に見舞われた。そのため、大切な穀物が全く実らなかった。無駄に春には田畑を耕し、夏には苗を植えたりもするが、秋に稲刈りや収穫を行い、冬に倉庫に収穫したものを納めるという普段の農作業から賑やかさがなくなった。

【わがまま解釈】
今回からは、養和の大飢饉のお話。
長明さん、だいぶ昔のことなので、あまりよく覚えていないと書いている。
でも、昔のことなんか、あまり覚えていなくても当然。
覚えていることだけを書いてくれるだけでも、当時のことは十分分かるし。

それで、この養和の大飢饉は、二年間続いたらしい。
春と夏に日照りが続き、秋と冬に台風や洪水が発生したとある。
ふつー、こんなことある?

養和の大飢饉はだけど、発生したのは1181年なんだとか。
ところが、どうやら前の年の1180年が、雨がほとんど降らなかったらしい。
で、それもあってか、1181年は異常気象となって、全く作物が育たなかったらしい。

ちなみに、1180年は、福原遷都があった年。
みんな水不足で困っている中、福原遷都が行われたということでしょうか。

それで、長明さんは、四季の農業について書いている。

春は田畑を耕す。
夏は苗を植える。
秋は収穫を行う。
冬は収穫したものを倉庫に収める。

何となくだけど、長明さん、こういう農業などの話はしないかなと思っていた。
何となくだけど、和歌、音楽、有識故実などは得意分野だけど、農業については興味がないと思っていた。
もっと言えば、世間知らずで、民百姓の生活にスポットを当てることはないと思っていた。
いや、もしかしたら、方丈記を書く上で、色々と勉強をしたのかもしれないけど。

ただ、もしかしたら、実は、民百姓の暮らしに理解があったかもしれない。
なんせ、長明さんは、下鴨神社の御曹司。
為政者だけでなく、民百姓と関わることもあっただろう。

分からないけど、昔って今よりも日常生活と神事が密接だったと思うのね。

・田植えの際には、五穀豊穣を願ってお祭り。
・作物が実れば、実りのお祭り。
・収穫すれば、収穫できたことのお祭り。

下鴨神社でも、こういったお祭りをしていたんじゃないだろうか。

下鴨神社は、全国に70ほどの荘園を持っていたと聞く。
ということは、どこの荘園で何がどれぐらい取れるということを知っていたかもしれない。
また、それらの荘園で働く人たちによって、下鴨神社は支えられているとか、そういう意識もあったかもしれない。

まー、そんなことを思うと、長明さんも、それなりに民の暮らしとか、農業にも詳しかったかもしれないと思う。
そんなことを想像するのも、文学のロマンか。
まー、適当に書いているだけなんだけど。
ごめんなさい。

実際、方丈記を読んでみると、長明さんは、意外と野生の植物に詳しい。
方丈の庵を建てた後、近場を散歩したり、その辺に生えている果実を採ったり、近くに住む子どもと遊んだりしているけど、そういうのを読むと民百姓の暮らしだとか、ちょっとした農業の知識も持っているように思う。
そして、家庭菜園ぐらいなら、農業もできたんじゃないだろうか。
でないと、いくら清貧の生活だとしても、飢え死にしてしまうから。

ところで、この養和の大飢饉が起きていた頃、政治の世界は大混乱を起こしていた。
いわゆる源平の戦い。
それで、ちょっと年表を見てみたいと思う。

  年       戦い            勝敗
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1180年   以仁王の挙兵      ○平家 VS 以仁王●
        石橋山の戦い      ○平家 VS 源頼朝●
        富士川の戦い      ●平家 VS 源頼朝○
        近江攻防        ○平家 VS 近江源氏●
1183年   倶利伽羅峠の戦い    ●平家 VS 木曽義仲○
        水島の戦い       ○平家 VS 木曽義仲●
1184年   一の谷の戦い      ●平家 VS 源義経・源範頼○
1185年   屋島の戦い       ●平家 VS 源義経・源範頼○ 
        壇ノ浦の戦い      ●平家 VS 源義経・源範頼○ 平家滅亡


とりあえず、有名どころの戦いをあげてみた。
で、これを見ると、1181年、1182年は、戦いが行われていない。
もちろん、小競り合いはあったんだけど。
で、その理由の一つに、養和の大飢饉があるらしい。

つまり、この養和の大飢饉のせいで、戦いもできなかったらしいのね。
あと、平家は、安徳天皇の大嘗祭をする都合もあって、戦いを避けたかったというのもあるらしいいけど。
飢饉のせいで戦が行われなくなるって、やはり今回の飢饉は相当のものだったように思う。
「腹が減っては、戦はできぬ」とはまさにこれ。

1183年になると、倶利伽羅峠の戦いに勝った木曽義仲が、平家を蹴散らして上洛をする。
ところが、平安京には、食糧がなかった。
で、木曽義仲軍の兵士は、平安京の民家を襲って食糧を奪っていくんだけど、このことで木曽義仲は民衆の支持を失う。
結局、木曽義仲は、同族の源義経や源範頼に敗れて戦死する。

ところで、養和の大飢饉で、特に被害が大きかったのは西日本だったとか。
そして、東日本は、そこまでの被害はなかったらしい。
源頼朝の場合、朝廷に、東国の年貢をきちんと納める代わりに、東国の支配権を認めて欲しいと言っている。
ということは、やはり、東日本は、食糧の確保にまだ余裕があったのかもしれない。

一方の平家。
養和の飢饉で、食糧の調達が思うようにならなかった。
倶利伽羅峠の戦いの際も、北陸を進軍していく先々で、民衆から食糧を奪って(もらって)いる。

考えてみると、平清盛は、日宋貿易による国家繁栄に重点を置いていた。
平家繁栄かもしれないけど。
で、港を整備して、航路の安全を確保したり、貿易による経済の発展を目指していたと思う。
つまり、これからは、経済の時代だと。

ところが、養和の大飢饉によって、状況は一変する。
いくら、「これからは、経済の時代」だとか「貿易で発展」だとか言っても、お腹がすいているのに港を造れるわけもない。
分からないけど、平清盛は、貿易によって雇用を生み出すとか、そういうことも考えていたんじゃないか。
大げさに言えば、「農業」から「商業」への政策返還を目指したのではないか。

ところが、今回の飢饉で、民衆は「やっぱり国の基本は農業だよね」って感じたんじゃないだろうか。
で、「経済がどうのこうのって言ったって、そんなの金持ちの発想だろ」みたいな感じで、そういうのもあって平家はみんなから嫌われたというのもあるかもしれない。
いや、本とテキトーに書いているだけだから。

今回はこの辺で。

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