方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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把針休息①

今回のテーマは、把針休息。

把針休息。
これ、意味、分かりますか?
僕は、知りませんでしたが。
まー、最近になって知りましたが。

曹洞宗だと、ひたすら座禅だけをするという修行があるらしい。
それを、臘八摂心というんだとか。
で、その摂心と摂心の間にあるのが「把針休息」。

把針というのは、裁縫のこと。
休息は、そのまま休息。
つまり、把針休息とは、修行と修行の間で、衣服のほころびを直したりする休みの日を言うらしいのね。

だいぶ前置きが長くなりました。
つまり、今回のテーマは「休み」。
もっといえば、特に、テーマはなし。
まーね、だいたい、いつも、こんな感じで適当だけど。。。

前回まで、発心集の話だった。

「貧男、差図を好む事」

このお話は、貧男が、紙くずに家の絵を描いて、それを楽しむというお話。
で、このお話の中で、次のようなくだりがあった。

龍樹菩薩は、次のように言われた。

「たとえ物が豊かであっても、心が欲でいっぱいなら、それは貧しい人である。また、たとえ貧しくても、心に欲がなければ、それは豊かな人である」と。

播磨国の書写山の性空上人が書き留めた言葉には、次のようなものがある。

「片肘を曲げて枕とする。全ての楽しみはここにこそある。これ以上、浮雲のような栄華を求めてどうするというのだ」

また、こういう話もある。

中国に、ひとりの琴の師匠がいた。そして、弦のない琴をいつもそばに置いていた。ある人が不思議に思って理由を聞いた。
すると、その琴の師匠は「自分は、琴を見ると、曲が心に浮かんでくるんですよ。だから、自分にとって、琴を見ることは琴を弾くことと同じなんですよ」と答えた。

このあたり、僕の適当な訳だけどね。

それで、僕は、このお話は禅と同じだなと思っていた。
まー、この話を読んで、禅をイメージする人は少ないと思う。
僕も、家が代々、曹洞宗を信仰していたとかで、そう思っただけ。
ちなみに、僕自身は、曹洞宗を信仰しているわけではないけど。
別に檀家でもない。
ただ、曹洞宗の大本山の永平寺には、二回行った。

それで、禅というと、僕は、座禅のことだと思っていた。
つまり、座ること。
ところが、最近、永平寺の動画を見ていた。
その中で、永平寺貫首の宮崎奕保禅師は、

「何かと一つになることが禅である」

と言っていた。
何かと一つになる。
そのものになり切る。

座ったら座ったで、それが禅。
歩いたら歩いたで、歩くことが禅。
喋ったら喋ったで、喋ることが禅。

つまり、生活すべてが禅になると言う。

また別の禅師さんのお話だっただろうか。

「座禅は、なんのためにしているんですか?」

という質問があった。
で、その禅師さん、どう答えたかと言うと、

そうですね、わが宗祖の道元禅師様の座禅は、悟るための座禅でも何でもありません。
ただ、ただ、座る。
無条件で座る。

驚くことに、意味はなかった。
修行のためとか、悟るためとか、目的があって行う行為ではないんだとか。
ただ、座る、それだけらしい。
そして、いわゆる「行住坐臥」の全てが、座禅となるらしい。

正直、理屈では分からない。
ていうか、理屈を超えないといけないのだろう。
頭で考えて分かるんじゃなくて、体とか心で分かる境地とでもいうか。

それで、僕は、思い出した話があった。
それは、公案。
公案と言うのは、禅宗でよく用いられる問答のこと。
しかも、むちゃくちゃな内容。

一つ、例を挙げると、「隻手音声」。

はい、もう、読むことすらできない。
なんなんだ、これ!?

これ、「せきしゅおんじょう」と読む。
答えを聞いても、さっぱり分からない。
意味は、片手の音、ということ。
平たく言うなら、

「両手を鳴らすとパンと音が鳴るが、片手を鳴らした時の音を聞いてこい」

ということ。

分かりますか?
理屈で考えている内は、絶対に解けない問題。
ていうか、答えがあるのか。

これ、修行僧たちも、一生懸命考えるんだとか。
そして、師匠に、「聞こえた」と言っては怒られる。
逆に「聞こえません」と言っても怒られる。
どっちを答えても怒られる。
そういうのがしばらくは続くらしい。

で、ある日、突然、「こういうことか」と分かる境地に達するんだとか。
で、その境地をうまく表現できたら、合格らしい。
いや、僕は、したことないですよ。

方丈記にしても、発心集にしても、頭だけで理解しようとしても完全に理解はできない。
そして、自分が長明さんと一つになる、自分が作品と一つになる、その境地になることが、本当に方丈記や発心集を理解することなのだろうと思う。
そう思うと、方丈記や発心集などは、禅とか公案の要素を含んでいるのかもしれない。

今回はこの辺で。

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