方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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瀬見の小川事件②

前回からの続き。

「瀬見の小川」の話。

長明さんが編み出した「瀬見の小川」という表現。
みんながまねをするようになった。
で、みんな、長明さんが「瀬見の小川」の第一号ということをしらないまま、「瀬見の小川」の言葉だけは使われるようになった。

それで、無名抄では、次のように書かれてある。

【原文】
佑兼いはく、「さればこそ。それいみじくよみ出したれども、世の末には、いづれか先なりけん、人はいかでか知らん。何となくまぎれてやみぬべかりける」と本意ながり侍りしを・・・

【訳】
鴨祐兼が言うには、「だから、ちゃんとしたしかるべき歌会でのみの使用にしておけと俺は言ったんだよ。お前が瀬見の小川第1号っていうことが正式な記録として残らないだろ。まあ、お前は、立派な表現を世に出したつもりだろうけどな、時代が経てば、誰が一番最初に言ったかなんかは、誰も分からなくなるんだよ」と、まー、残念だったなとのことでした。

前回、鴨祐兼は、長明さんに対して「瀬見の小川という表現は、もっと大事なところで使わんかい!しょーもない歌会の席で使うんじゃねー!」と言ったという話をした。
こーいう言い方だったかは知らないけど。。。
鴨祐兼は、長明さんのことを毛嫌いしていたのかもしれない。
もしかしたら、「お前の和歌の腕前がどれぐらいかは知らんが、お前ごときが和歌の世界で活躍できるわけないだろっ!」と思っていたかもしれない。

僕が勝手に書いてるだけだから、分からないよ、本当に。

それが、鴨祐兼の予想を裏切り、「瀬見の小川」がはやりだした。
鴨祐兼からすると、驚いたかもしれない。
「あれって、そんなに凄い表現なのか?」
長明さんのことを散々けなしたにもかかわらず、世間では、長明さんの「瀬見の小川」がいいねってなっている。

鴨祐兼、ちょっと立場が無いような感じか。
ちょっと言い過ぎたかもしれない。
でも、長明さんのことをタダで認めるわけにはいかない。
それが、

「だから、ちゃんとしたしかるべき歌会でのみの使用にしておけと俺は言ったんだよ。お前が瀬見の小川第1号っていうことが正式な記録として残らないだろ。まあ、お前は、立派な表現を世に出したつもりだろうけどな、時代が経てば、誰が一番最初に言ったかなんかは、誰も分からなくなるんだよ」

という皮肉っぽい言い方になったのかもしれない。

もちろん、これも、僕が勝手に「皮肉」と書いただけ。
もしかしたら、鴨祐兼も、「瀬見の小川」を評価していたかもしれない。
で、長明さんこそが、瀬見の小川の第一号であることを、世間が知らないことに対して、心の底から残念がっていたかもしれない。

それで、この「瀬見の小川」だけど、新古今和歌集に採用された。
その時のことを、長明さんは、無名抄の中で次のように書いている。

【原文】
新古今撰ばれし時、この歌入れられたり。「いと人も知らぬ事なるを」と申す人などの侍りけるにや。すべて此の度の集に十首入り侍り。これ過分の面目なる中にも、此の歌の入りて侍るが、生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり。但し、あはれ無益の事かな。

【訳】
新古今和歌集が完成した際に、この和歌が採用されました。
ほとんどの方は、「瀬見の小川」が鴨川の別名であることを知らないにもかかわらず、こうして新古今和歌集にこの和歌が採用されたということは、この事実を誰かが知っていて、新古今和歌集の作成に参加した和歌所寄人の方に、この事実を伝えてくれたが人がいるのかもしれませんね。

私の和歌は、全部で10首採用されました。
とても栄誉なことで、本当にありがたいことです。
その中でも、この「瀬見の小川」の和歌が採用されたというのは、本当に本当に嬉しくて、この嬉しさはあの世に行っても決して忘れることはないでしょう。
冷静になれば、こんなことは大した話ではありませんが。。。

意味としては、だいたいこんな感じ。
原文に対して、訳の方がだいぶ長いけど。
僕が、だいぶ手を加えただけ。

で、原文を直訳すると、「ほとんどの方は、「瀬見の小川」が鴨川の別名であることを知りませんでした」となる。
そう、もともとは、下鴨神社の関係者ぐらいしか知らなかった。
それで、長明さん、「瀬見の小川=鴨川の別名」って知っていた人、すごいねーって言っている。
しかも、そのことを、新古今和歌集を作成する和歌所寄人に伝えた人もすごいねーって言っている。
おかげで、自分の「瀬見の小川」の功績が、新古今和歌集として認められた、と。

長明さんとしては、誰かは知らないけど、私の自信作「瀬見の小川」を新古今和歌集に載せるために頑張ってくれた全ての人、本当にありがとうと言ったところか。

ところが、これ、長明さんが裏で糸を引いていたという話があるらしい。

和歌所寄人は、全部で13人だった。
そして、その中の一人が長明さんだった。
但し、長明さんは、河合社禰宜事件をきっかけに、途中で辞めてしまうけど。

それで、どうも、和歌所寄人に「僕の和歌を選んでね」って、お願いをしていた節があるらしい。
いや、これだって、本当かどうかは分からないけど。
分からないけど、「瀬見の小川っていいよね?あれ、一番最初に詠んだの誰だろうねー?」とか「なんか、顕昭さんが瀬見の小川のことをよく知っているみたい」とか、それとなく匂わすようなことを言っていたかもしれない。

長明さん、選ばれた和歌は、全部で10首。
そのうち、半分の5首は、飛鳥井雅経によって選ばれている。
しかも、「瀬見の小川」を選んだのも、飛鳥井雅経だった。

鴨長明と飛鳥井雅経。
長明さんは1155年生まれ。
飛鳥井雅経は1170年生まれ。
15歳も離れているけど、推測するに、仲は良かったように思う。
飛鳥井雅経が長明さんの和歌を5首選んだのも、そういう関係性があったのではないか。

また、鎌倉幕府三代将軍の源実朝が、和歌の師匠を求めたことがあった。
そんな源実朝に、飛鳥井雅経は、和歌の師匠を推薦する。
推薦した和歌の師匠は「鴨長明」だった。

二人は仲の良さもあったかもしれないけど、飛鳥井雅経は鴨長明を評価していたんだと思う。
年齢もだいぶ離れていて、自分の知らないことをよく知っているし、和歌だけでなく音楽にも詳しい。
下鴨神社の子として、有識故実にも詳しい。
飛鳥井雅経は、鴨長明の実力をよーく分かっていたような気がする。

で、二人は一緒に鎌倉に行き、源実朝に会う。
最終的に、長明さんは、源実朝の和歌の師匠になることはなかったけど。
このあたりも、長明さんの運のなさだろうか。。。

ただ、「瀬見の小川」つながりで書くと、源実朝も「瀬見の小川」をまねしている。
源実朝もまた、長明さんの実力を認めていたのかもしれない。

これで、瀬見の小川の話は終わり。

最後に、長明さん、瀬見の小川の話の最後に「但し、あはれ無益の事かな。」と書いている。
平たく言えば、「大したことじゃない」ってこと。
無名抄は、方丈記と同じく、亡くなる数年前に書かれた作品だった。
しかも、出家もしている。
そういう立場からすると「大したことじゃない」っていうかんじになるのだろうか。。。

今回はこの辺で。

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