方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。

【原文】
すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。

【訳】
だいたい、私は、この生きずらい世の中を我慢をしながら、色々なことに悩み苦しみながら30年以上生きてきた。
その間、節目節目で挫折を繰り返し、自分の運のなさといったものを思い知らされた。

【わがまま解釈】
これ、方丈記の中で、僕が一番好きな文章。
この一文だけでも、長明さんが自分の人生をどのように捉えていたかが分かる。
そもそも、長明さん、方丈記の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして・・・」と書いて、いかにも人生を悟ったような口調で書いていた。
でも、長明さん、ずーっと人生に苦しんでいた。
負け組の人生。

ちょっと書いていい?

長明さん、父・長継は、下鴨神社の正禰宜惣官だった。
正禰宜惣官というのは、下鴨神社の最高責任者ということ。
父・長継は、若いながらも立派な人物だったようで、下鴨神社の頂点に立った人物だったのね。
ところが、そのお父さんが若くして亡くなってしまう。
長明さん、お父さんのような立派な神職になることが夢だった。
そして、長明さん、20代の頃に、下鴨神社の正禰宜惣官の地位を巡って同族の鴨祐兼と争うも、これに敗れている。

長明さん、相当ショックだったのだろうか。
以降は、働きもせずに、趣味だった和歌・音楽に没頭する日々を送る。
いわゆるニートだろうか。
そして、30歳の頃、愛想をつかされたのか、家を追い出され、妻子と別れている。

47歳の頃、後鳥羽上皇の和歌所寄人に抜擢される。
ちょうど、その時に、同僚だった源家長が日記に「長明さんは孤児で、下鴨神社の仕事もせずに人と交流することもなく、ずーっと部屋に籠ってばかりだった」と残している。
恐らく、40代半ばになっても、ほとんど働くことなく、引きこもりの生活をしていたのかもしれない。
一方で、歌会には参加していたようなので、完全な引きこもりでもなかったと思う。

源家長の日記によると、和歌所寄人となった長明さん、仕事ぶりはとても真面目だったらしい。
なんだ、やればできるんじゃない!長明さん!
その仕事ぶりに、後鳥羽上皇、長明さんに褒美を与えようとする。
河合神社の禰宜に空席ができたので、そこに長明さんを置いてやろうと推薦状を書いた。

このへんの話も、源家長が日記に残している。
それによると、後鳥羽上皇が長明さんへの褒美を正式発表する前から、今回の話がうわさとして流れていたらしい。
しかも、みんなが、「長明さんの河合神社の禰宜就任は間違いなし」とうわさする。
そして、そんなうわさが長明さんの耳にも届く。

長明さん、「よろこびの涙、せきとめがたき景色」だったそう。
つまり、嬉しくて涙が止まらなかったらしい。
実は、長明さんの父・長継も河合神社の禰宜を経て、下鴨神社の正禰宜惣官になっていた。
長明さん、20代で神職への道をあきらめていた。
ところが、50歳目前で、再び、神職への道が開かれようとしていた。
お父さんと全く同じルートで、神職の道へ進めることに、長明さんは、涙を流して喜んだという。

ところが、長明さん、河合神社の禰宜は叶わなかった。
というのも、ここで、鴨祐兼から横やりが入る。
鴨祐兼は、息子・祐頼の方が河合神社の禰宜に相応しいと主張してきた。

・祐頼の方が、官位が高い。
・長明は、下鴨神社の仕事をしていない。
・下鴨神社の正禰宜惣官として、私の言葉は非常に重みがある。

などと言い張るもんだから、さすがの後鳥羽上皇の推薦も全く意味をなさなかった。
それで、長明さん、河合神社の禰宜になることに失敗する。
ここで、長明さんに対して責任を感じたのか、気の毒に思ったのか、後鳥羽上皇が、下鴨神社の末社の一つの社格を上げて、そこの禰宜に長明さんを置こうとする。

ところが、長明さん、「話が違う」と言って、この話を断っている。
それどころか、和歌所寄人の職さえも辞めてしまう。
源家長の日記には、このことを「長明さんは強情すぎる」と書いてあるけど。
長明さんとしては、もう何もかもを捨てないと収まりがつかなかったのだろう。
そして、後鳥羽上皇から「戻っておいで」と言われるも、最終的に戻ることはなかった。

長明さん、当時の心境を次のように和歌に詠んでいる。

見ればまづ いとゞ涙ぞ もろかづら いかに契りて かけ離れけん

これ、どういう意味かと言うと、

もろかづらを目にすると、どうしても涙が溢れてしまう。
どういう因果があって、私は、下鴨神社から離れることになってしまったのだろう。

その後の長明さんだけど、57歳の頃、源実朝と面会している。
というのも、源実朝が、和歌の師匠となる人物を探し求めていたらしいのね。
それで、源実朝と面識があった飛鳥井雅経が、長明さんを推薦したんだとか。
飛鳥井雅経は、長明さんより一回り以上年下だったけど、和歌所寄人の時の同僚でもあり、雅経は長明さんのことを好意的に見ていたと思われる。

で、源実朝と長明さんが面会をした話は、実は、鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡にも書かれている。
で、長明さんが、源実朝の和歌の師匠になれたのかどうかだけど、なれなかった。
長明さん、失意の内に都に戻る。
そして、書いたのが「方丈記」なのね。

すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。
その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。

この文章には、

・20代の頃、下鴨神社の正禰宜惣官になれなかったこと
・20代から40代半ばまで、ニートで引きこもりだったこと
・50歳の頃、河合神社の禰宜になれなかったこと
 さらには、和歌所寄人の職さえも捨ててしまったこと
・57歳の頃、源実朝の和歌の師匠になれなかったこと

こういった長明さんの不運がギュッと詰まっている。
まー、ニートで引きこもりは、不運でも何でもないかもしれないけど。
でも、その間も、長明さんはもがいていたと思うよ。

しかも、これ以外にも、長明さんは、

・秘曲尽くしの事件
・瀬見の小川事件

などのエピソードがあって、こういうのを見ると、「長明さんって、運がない」とも思うけど、同時に、激情型の人間なんだなーって思う。

長明さん、方丈記を書くにあたって、自分の過去を色々と思い出したに違いない。
そもそも、長明さん、後ろ振り返ったところで、ツラくなる扉しかないわけ。
その扉を開けて、思わず涙を流してしまったこともあったかもしれない。

決して、ダメ人間ではないと思うけど、どうしてもふつーの生き方ができなかったんだろう。
源家長が日記で、「長明さんは強情すぎる」ということを書いているけど、長明さん、そういった我の強さが自分を苦しめていることは、自分でも分かっていたと思うのね。
もし、長明さんが、もう少し性格的に融通が利いたなら、ここまで人生に苦しむことはなかったのかもしれない。

その場合、方丈記は生まれなかっただろうか。。。

今回はこの辺で。

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