方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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尼子晴久~毛利元就も勝てなかった西国の雄

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 118
戦闘 148
智謀  42
魅力  81
野望  82

今回のテーマは、尼子晴久です。

尼子晴久ですが、評価が低いんです。
実は、僕も、以前は「大したことないなー」と思っていました。
ただ、あるときを境に、尼子晴久って実はすごいんじゃないかと思うようになった。
少なくとも、世間で言うほどアホではない、と思った。

それは、僕が大学生の頃の話。
僕は、島根県の大学に行っていた。
そして、一般教養の授業で、山陰の歴史の授業を取っていた。
で、尼子家の最盛期は、晴久のときだったと習った記憶がある。
尼子がどういう政策をしたとか、どういう風に国人衆を従えたとか、そんな授業だったと思うけど。
ただ、とにかく、その授業がきっかけで、尼子晴久を見る目が変わった。

で、ここで、尼子晴久の能力値を見てみると、低過ぎる。
全てにおいて低過ぎる。
特に智謀42ってなに?
MAX200だぞ?
100点満点なら21点じゃねーか!
いくら何でもおかしくないか?

それで、尼子晴久の評価が低い理由を考えてみた。
多分、以下の理由のせいだと思う。

◆新宮党を滅ぼした
◆尼子家を滅ぼした
◆毛利元就に勝てなかった
◆尼子経久(晴久の祖父)が偉大過ぎる
◆大河ドラマ「毛利元就」の影響

ここからは、一つ一つ見ていきたいと思います。

◆新宮党を滅ぼした
新宮党と言うのは、尼子国久(尼子晴久の叔父)が率いた尼子軍の中核となる軍事部隊のこと。
尼子家の居城・月山富田城近くの新宮谷を本拠地としたことから、新宮党と呼ばれたらしい。
で、この新宮党を尼子晴久が滅ぼしてしまうんですね。

一般的には、
・尼子国久を筆頭に新宮党がその武力を背景に横柄な態度を取ったために、晴久が新宮党を滅ぼした
・新宮党の脅威を感じていた毛利元就の謀略によって、晴久が新宮党を滅ぼしてしまった
などと言われている。
また、これが原因で尼子家は弱体化したと言われたりもする。

でも、本当は、晴久が、出雲国の中央集権化を図るために新宮党を粛正したんだそう。
また、新宮党を粛正した後でも、決して軍事的に弱くなったという事実はないらしい。
実際、新宮党を粛正後も、晴久は各地で戦っていて、しかも、ほとんど負けていないんだとか。

◆尼子家を滅ぼした
尼子家の一般的なイメージとしては、
・最盛期は経久の時代
・滅んだのは晴久の時代
というのがあると思う。

ただ、実際は、
尼子経久 → 尼子晴久 → 尼子義久 → 尼子勝久
と続いていて、尼子義久のときに滅亡をする。

だから、決して、晴久が尼子家を滅ぼしたわけじゃないのね。
むしろ、晴久が、尼子家の最盛期を築いたぐらいだから。
実際、尼子晴久は、室町幕府から8か国の守護に任命されている。
また、室町幕府の相伴衆にも任命されている。
つまり、室町幕府からは、有力大名として認知されていたわけ。

また、月山富田城を難攻不落の城にし、大規模な城下町を整備している。
日本海を利用して、国内だけでなく国外とも交易をしている。
大森銀山の支配を強化して、経済力の源としている。
出雲大社を支配下に置いた。
と、まー、こんな感じで、尼子家の基盤を強固にしているのね。

さらには、各地に遠征もしているし、大内、山名、毛利と複数の有力大名を相手に戦い続けている。
しかも、ほとんど負けていない。
むしろ、勝ち戦が多いぐらいだから。

ただ、晴久が、尼子家の最盛期を築き上げた時点で、突然死んだこと、これは痛かったと思う。
急死したために、義久へのバトンタッチができなかった面はあると思う。

◆毛利元就に勝てなかった
世間的には、これ、絶対にあると思う。
特に、

・吉田郡山城の戦いで、毛利元就に敗れたこと
・大内軍(毛利元就も入っている)に、月山富田城を攻められたこと

という事実が、晴久が元就に勝てなかったというイメージを作っていると思う。

しかも、毛利元就だから、相手が悪すぎた。
どうしても、尼子晴久が引き立て役になってしまう。
でも、決して、尼子晴久は、毛利元就に負けていないから。
むしろ、尼子晴久と毛利元就の戦いを見ると、尼子晴久の方が勝った回数は多いと思う。
特に、月山富田城の戦い、忍原崩れ、降露坂の戦いなどは、毛利軍は大敗したという記録が残っているし。
にもかかわらず、尼子晴久の評価ってなんでこうも低いのか。。。

◆尼子経久(晴久の祖父)が偉大過ぎる
祖父・尼子経久は、毛利元就、宇喜多直家と共に、中国地方の三大謀将と言われたりもする。
また、テレビや歴史本でも、尼子経久は名将として扱われる場合が多いと思う。
確かに、戦国大名となったのは経久の代だけど、最盛期は晴久の代で間違いないと思う。

というのも、経久の時代では、いくら勢力を拡大したといっても、完全に支配をしていない。
それどころか、実は、本拠地の出雲国(今の島根県)ですら、完全な支配をしていない。
実際、本拠地の出雲国(今の島根県)を完全支配したのは、晴久の代からだし。
それ以外の国についても、領国化に成功したのは、やっぱり晴久の時だと思うから。

◆大河ドラマ「毛利元就」の影響
はっきり言って、これの影響はあるように思う。。
正直、毛利元就のすごさを表現するために、尼子晴久が無能扱いされていてるシーンが多かった・・・
ように思う。

特に、思い出すのが、尼子晴久(高嶋政宏)とその妻(岩崎ひろみ)のやりとり。
いつも晴久は、妻からバカにされていた。
しかも、最終的には、晴久は妻に殺されたんじゃなかったっけ?
とにかく、このドラマでの晴久は、君主としても亭主としても無能扱いされていた。
もっと言えば、尼子全体が無能扱いされていた。
もうね、尼子家の連中が、面白いぐらいに元就の策略に引っかかる。
正直、ちょっとやり過ぎ感があったように思うぐらい。

というわけで、尼子晴久について書いてきたけど、僕の中では、もう少し長生きしたら、尼子晴久と毛利元就、あるいは、尼子家と毛利家の立場は完全に入れ替わっていた可能性もあると思っている。
それぐらい、尼子晴久はすごかったと思っている。

今回はこの辺で。

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