方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。

【原文】
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

【訳】
自分には分からない、この世に生まれて死んでいく人は、どこから来てどこへ行くのか。さらにまた、自分には分からない、人生というものは短く、どうせ人はすぐに死んでいくにも関わらず、仮の宿でしかない家をなぜ誰かのために大変な思いをして建て、さらには、何のために見栄えを良くして喜ぶのか。

家とそこに住む人も一瞬の人生の中ではかなさを争い、そして消えてしまうのだ。その様子は、朝顔の花とそこに付いた朝露のように思われる。例えば、朝顔の花に付いた朝露、これが花びらから滑り落ちたとしても朝顔の花はまだ咲き残っている。しかし、それも長く続くことはなく朝日が輝く頃には朝顔の花は枯れてしまうのだ。また、例えば、朝顔の花が咲きにしぼんで朝露が残っている場合もある。しかし、その朝露も一日が過ぎていき夕方になる頃には消えているのだ。

【わがまま解釈】
長明さん、自分には分からないことが二つあると書いている。

・人は、どこから来てどこへ向かおうとしているのか?
・そもそも人生は短く、その中で、どんな家に住むのかは大した問題ではないように思われる。
 にもかかわらず、都の人たちが、大変な思いをして立派な家を建てるのはなぜか?

長明さん、方丈記を書いたのは60歳前後。
つまり、間違いなく人生を振り返りながら、方丈記を書いたと思う。

そもそも、長明さん、お父さんは下鴨神社の正禰宜惣官。
だから、長明さんは、下鴨神社の御曹司だった。
ところが、お父さんが若くして亡くなると、父の後継者争いに敗れてしまう。
しかも、長年住んでいた父方の祖母の家も追い出される。

とにかく、長明さんの人生は、不幸と不運の繰り返しだった。
最後の最後まで、報われることはなかった。
まー、長明さん自身にも、至らぬ点はあっただろうけど。
だめ人間ではあったけど、その一方で、和歌、音楽、ものづくりの才能は超一流だった。

それで、自分の人生を振り返った時に、「人ってどこから来て、どこに向かうんだろう」って思ったんだろうね。
で、もちろん、そんなの分かるわけもないだろうけど。
長明さん自身、下鴨神社の御曹司として生まれながら、まさか、自分がここまで落ちぶれるとは思っていなかったと思う。

ただね、「人ってどこから来て、どこに向かうんだろう」という問い。
僕には、「なぜ、自分は、人並みの幸せを掴めないのか」という風に聞こえる。
ごめん、聞こえなくもない、ね。
まー、僕が勝手に言っているだけだから。
ただ、長明さんの中では、この時点では、幸せかどうかは関係なかったのかもしれないけど。

次に、長明さんは、次のように自問する。
「そもそも人生は短いのに、その中で、どんな家に住むのかは大した問題ではないように思われる。
 にもかかわらず、都の人たちが、大変な思いをして立派な家を建てるのはなぜか?」

平安貴族にとって、家というのは権力の象徴だったと思うのね。
まー、今でもそんなところはあると思うけど。
で、長明さん、方丈記には、父方の祖母の家に住んでいたと書いてある。
ただ、出世もできず、働きもせずに、家族から愛想をつかされたのか、その家を追い出される。

それで、方丈記によると、二回引越しをしたと書いてある。

・次の家は、前の家と比べると100分の1の大きさだとか
・さらに次の家は、前の家と比べると10分の1の大きさだとか
・家は作ったものの、門は作れなかったとか
・方丈の庵に至っては、土地を買うこともできなかったとか

とにかく、そんなことを書いてある。
ていうか、本当は、もっともっと書いてある。
もーね、「おばあちゃんの家、どれだけでかかった?」って突っ込みたくなる。
ただ、長明さん、家へのこだわりは大きかったんだろうね。
方丈記の中で、家に対する記述は、まーまー多いしね。

長明さん、家とそこに住む人を、朝顔と朝顔の露に例えている。
長明さん、方丈記の冒頭では、川と川の水泡の例えを出していた。
こういう表現が好きだったんだろうね。
それで、

「朝顔=家」
「朝顔の露=人」

なんだと思う。
僕は知らなかったけど、「朝顔の花一時」という言葉があるんだそう。
これは、朝顔の花は、朝咲いたとしても、昼にはしぼんでいるということから、物事の衰えやすいことを表した言葉なんだそう。
まー、平家物語の「おごれる者も久しからず」というやつか。

つまり、朝顔の場合、花の命は短い。
それで、案外、家もそんなものかもしれないわけ。
家だって、ずーっとそこに存在し続けている家は、ほとんどない。

また、そんな朝顔に一滴の朝露が付いている。
でも、その一滴の朝露もすぐに朝顔から滑り落ちてしまう。
人生もまたそんなもの。

朝顔であれ、一滴の朝露であれ、最後は消えてなくなるのね。
まさに、仮の宿。
にもかかわらず、なぜ、人は、立派な家を建てようとするのか?

このあたりは、方丈記の後半にも話があった。
基本的に、人は、自分のために家を建てない。
友達とか、同僚とか、師匠とか、さらには家畜のためとか、誰かのために家を建てると。
そもそも、自分一人が住むのに十分な家なら、大きな家もは必要ないと。

それで、同じようなことが、池亭記にも書かれてある。

この20年、世間の人は、豪邸を立てることを好み、様々な装飾を施して、分不相応な贅沢をしている。
しかも、そこまでして建てた大豪邸には、2、3年ほどしか住まない。
昔の人が言った「家を建てた者は、そこに住まない」というのは、このことかと思った。

といったことが書かれてある(らしい)。
で、このあたりを読むと、方丈記は、池亭記を受け継いでいるな―って思う。
あるいは、鴨一族には、家に執着する何かがあるのか。

それから、平安時代って、国風文化と言われた時代。
いくつかの日本の文化が生まれたが、家については、寝殿造という新しいタイプの家が生まれる。
大きな家に大きな庭があって、池があってみたいな、あの大きな屋敷のこと。
都の人たちが、立派な家を建てようとしたのも、そういうブームがあったからとも言えるかもしれない。

しかも、平安京って、近くを川が流れていて、度々、川が氾濫している。
鴨川とか桂川とか、まーまー氾濫している。
だから、せっかく建てた家が、水害に遭うということも多かったらしい。
さらに、だから、建築ブームが起きたというのもあるのかもしれない。
ただ、池亭記によると、平安京の内、右京は氾濫が多過ぎて、完全に廃れていたみたいだけど。

それで、長明さんは、平安京を守護する下鴨神社、その鴨一族に連なる人間として、平安京の様子をずっと見ていたのかもしれない。
長明さんにとって、家というのは永遠のテーマだったように思う。

今回はこの辺で。

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