方丈記に、似た運命

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方丈記の分析

今回は、方丈記の分析。

分析なんて書いてるけど、そんな大した話じゃないから。
知らない人が読めば、「あー、そうなんだ」ってなると思う。
でも、知ってる人が読めば、「うわっ、浅っ!!」って思うだろうけど。

もーね、その程度の内容だから。
ごめんね、ごめんねー。

で、この方丈記、大きくは前半と後半に分かれる。
前半部分は、当時の世の中の出来事について書いてある。
いわゆる、五大災厄について。
後半部分は、自分の生い立ちとか、生き方について書いてある。
つまり、自叙伝的な内容。

まずは、前半から。
鴨長明は、方丈記の中で「今まで生きてきて信じられない出来事がいくつかあった」と書いてあるのね。
で、それらが何かというと、安元の大火、治承の竜巻、養和の飢饉、元暦の地震、福原遷都の五つ。
で、これらを全部合わせて五大災厄。

◆安元の大火(1177年)
この火事で、平安京の3分の1が焼失したとか。
大臣クラスの家も焼け落ち、国の役所なんかも燃えてしまったとかで大変だったよう。
死者数については、数十人、数百人、数千人といくつか説があって、正直、詳細不明。
ただ、平安京の3分の1が焼けて、死者が数十人というのは少なすぎじゃないかねー。
方丈記には、安元の大火についてかなり細かな描写がある。
描写として記録が残るというのは、方丈記の一つの特徴かなーって思うけど。

◆治承の竜巻(1180年)
この竜巻、中御門京極付近から発生して、六条大路まで走り抜けたそう。
こう書いても、地図で見ないと分からないけど。
で、方丈記の中では「家財道具は、冬の木の葉が舞い上がるように空へと飛ばされた」なんてことを書いてある。
家財道具が空に飛ばされるって、もーね、竜巻のレベル超えてるよ。

長明さん、この竜巻にただならぬものを感じている。
神仏の警告ではないかと。
で、この竜巻の数か月後に、後に出てくる福原遷都が行われる。

◆養和の飢饉(1181年)
この養和の飢饉は、実は、2年にわたっている。
で、作物は育たない。
モノの値段は上がる。
生活できない者たちが浮浪者となって、あちこちにいる。

で、朝廷、加持祈祷をするも、効果ゼロ。
うーん、お祈りで飢饉が治まるなら、これほど楽なことはないと思うけど。
しかも、この大変な状況で、源氏と平氏が戦争をしているわけ。
これで市民の生活が良くなるわけがないよね。

◆元暦の地震(1185年)
この地震の凄まじさは、この世のものとは思えなかったと感想を記述。
山が崩れて土砂が川を埋め、海(琵琶湖か?)が傾いて津波が陸地へと押し寄せた。
平安京では何一つ無傷の建物はなかった。
と、まー、こんなことを書いている。

ちなみに、平家一門が壇ノ浦で滅亡したのも1185年。
当時の人々は、清盛公をはじめ平家一門の怨霊の仕業ではないかと噂したとか。

◆福原遷都(1180年)
この福原遷都は、都の人も誰も知らなかったとか。
一応書くと、遷都の噂はあったらしい。
そもそも福原ってどこ?って人も多いと思うけど、神戸市のこと。
順に書くと、都が、平城京、平安京、そして、神戸となったのね。

神戸
泣いてどうなるのか~
捨てられた我が身が~
みじめになるだけ~
パパヤパヤパヤパヤパパパ~

つまらんことを書きました。

で、長明さん、福原京を見に行った。
で、分かったことが、ものすごく狭いということ。
平城京の半分ぐらいの広さしかなかったとか。
しかも、全く整備もされていない。

方丈記には、旧都(平安京)は荒廃し、新都(福原京)は完成されておらず、人々の戸惑う様子が書かれてある。
で、この福原の都、かなり不評だった。
で、すぐに平安京に都が戻される。
そんなわけで、福原京は、わずか半年だけの幻の都となる。

と、まー、前半部分には、こんなことが書いてあるのね。

で、次に、後半部分。
ここからは、自分の人生についてのお話。

生い立ち
自分の身に起こったこと
方丈の庵での生活のこと
悟りを得たくて努力したけど、悟れなかったこと

まー、そんなことが書いてある。

で、まず、後半部分の最初の方に、次のようなくだりがある。

「わかがみ、父かたの祖母の家をつたへて、久しくかの所に住む。その後、縁欠けて、身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事をえず。三十余りにして、さらに我が心と、一の庵をむすぶ。」

意味としては、次のような感じ。

私は、父方の祖母の家を相続するということで、長年にわたりそこに住んでいた。
しかし、その後、縁が切れ、社会的にも経済的にも没落してしまい、色々と思うところはあったけれども相続については諦めることにした。
30歳を過ぎてから思うところがあって、一つの小さな家を造った。

実は、長明さんのお父さんは、下鴨神社の正禰宜惣官でスーパーえらい人だった。
正禰宜惣官、これ、「しょうねぎそうかん」って読む。
で、この正禰宜惣官というのは、下鴨神社のトップの地位なのね。

鴨長明の「鴨」は、下鴨神社の「鴨」で、長明さんは、名門社家の御曹司だったのね。
それが、お父さんを早くに亡くしたことで、出世の道が閉ざされてしまう。
で、働きもせずにニートの暮らしをする。
で、身内から愛想をつかされて、家を追い出されたのね。
後半の最初は、こんな感じでスタートする。

で、長明さん、何度か引越しをするものの、引越しのたびに家が小さくなることを嘆いている。
名門社家に生まれた長明さんにとって、家は大事だったと思うのね。
家こそが、権威であり、経済力であり、力だと。
ところが、最終的には、四畳半の家に住むことになる。

えーっと、分かりますか?
四畳半の部屋じゃなくて、四畳半の家だから。
ただ、この家のすごいのは、移動式っていうところ。
今風に言えば、キャンピングカー。
嫌なことがあれば、すぐに引っ越しができるようにしたと書いてあったと思うけど。

で、長明さん、この四畳半の家の素晴らしさをとことん語る。
さらに、この家から見える景色の素晴らしさについても語る。
そして、そこでの生活がどれほど満たされたものであるかも語る。

もーね、都であくせくした生活をしている奴ら、かわいそー
ここで、こうやって自由に暮らしている自分、さいこー
こんな感じ。

ただ、そうはいっても、長明さん、いつも悩んでいる。

「すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづから、短き運をさとりぬ。」

だいたいが生きにくい世の中を、我慢を重ねて、心を悩ませながら30年あまり生きてきた。
その間、節目節目で挫折を繰り返し、自分の人生の運のなさを感じた。

方丈記には、これだけしか書かれてなくて、具体的な挫折の中身については書かれていない。
具体的にどういった挫折があったのかが気になるけど。
そのあたりは、また別の回に書こうかなと。

それで、長明さん、安らぎの生活をしたいと出家をする。
そして、5年間、大原で生活をするも、何のさとりも得られなかったとか。
その後、大原から日野に引っ越しをする。
そして、方丈の庵で生活をして、そこで亡くなる。

長明さんね、方丈記の最後で、自分は、色々なものを捨てることでやっとこの幸せを手にすることができた、と書いている。
本当に、色々なものを捨てた。
家、家族、仕事、名誉、地位とか、とにかく捨てた。
で、たどり着いたのが方丈の庵。

その方丈の庵で、一人で自問自答をする。

自分が悟りを得られないのはなぜだろう。
自分が貧しく、卑しい身分として生まれたせいか。
それとも、単に心が狂ってしまっただけか。
長明さん、まー、そんなことを思うんだけど、答えは見つからない。

で、最後、南無阿弥陀仏と二、三回唱えた。
これで、方丈記は終わる。
終わり方としてはなんとも中途半端。
でも、南無阿弥陀仏ということは、自分としては全てをやり切った。
そして、後は阿弥陀仏にお任せしますということ、多分。
だから、方丈記の終わり方としては、これ以上のものはないように思う。

今回はこの辺で。

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