方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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真田昌幸~表裏比興の者

◆◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 180
戦闘 164
智謀 196
魅力  85
野望  91

真田太平記と言えば、僕が好きなドラマの一つ。
で、日曜の夜八時の大河ドラマ枠で、現代劇を放送していた時期があった。
そのため、一時期、水曜の夜八時に時代劇が放送されていた。
真田太平記、宮本武蔵、武蔵坊弁慶なんかがそう。

で、僕は、この真田太平記が好きだった。
当時、僕は、小学生だった。
それで、「真田ってカッコイイなー」って思っていた。
逆に、徳川家康は大嫌い。
いわゆる、虫が好かんというやつ。
多分、このドラマのせいだと思う。
今でも、僕の中では、徳川家康と言うと豊臣家を滅ぼした極悪人だと思っている。

真田昌幸を丹波哲郎、真田幸村を草刈正雄、真田信之を渡瀬恒彦が演じていた。
又五郎を夏八木薫、猿飛佐助を中村橋之助、徳川秀忠を中村梅雀がしていた。
真田が勝つと嬉しかったし、徳川秀忠が悔しがる姿が痛快だった。
最後、幸村が自害する場面は、悲しかった。

それで、数年前に、堺雅人が主演で真田丸があった。
正直「あれはちょっと・・・」って僕は思った。
真田太平記を見た人間からすると、真田丸は大河ドラマらしくなかった。
三谷幸喜の脚本だから、ある程度は予想ができたけど。

決して、三谷幸喜が嫌いなわけではない。
むしろ、好きな方だから。
なんだかんだ言って、最後まで見たし。
ただ、最近の大河ドラマ全般に言えるけど、昔のような迫力とか、どろぐさ感がない。
あっさりというか、スマートな感じがするのね。

で、話を戻して、真田昌幸。
何がすごいって、その変わり身の早さ。
もともとは武田勝頼に仕えていた。
ところが、1582年3月、武田勝頼が織田信長によって滅ぼされる。
そして、織田信長の家臣となる。

ところが、その3か月後・・・
事件発生。
それが、本能寺の変。
信長、まさかの頓死。

で、旧武田領が空白地となった。
そこへ、真っ先に攻め込んできたのが北条氏政。
で、一旦、北条家の家臣となる。
ところが、その後、徳川家康が攻め込んできた。
で、今度は、徳川家の家臣となる。

ところが、ここで、北条氏政と徳川家康が同盟をしてしまう。
その結果、二大勢力に挟まれた真田昌幸、微妙な立場に追い込まれる。
しかも、徳川家康と領土問題でもめてしまう。
で、真田昌幸、ついに徳川家を見限って上杉家の家臣となる。

それで、この時、真田家は徳川の大軍に攻められる。
いわゆる第一次上田合戦。
真田軍は、この戦いで上田城を守り抜くと、撤退する徳川軍に攻撃を加え、見事に勝利する。
まさに、小よく大を制すると言ったところか。
ちなみに、第二次上田合戦でも、昌幸は、徳川の大軍を上田城に釘付けにしている。

ところが、上杉家に臣従したのも束の間。
すぐに天下人だった豊臣秀吉に臣従する。

ここで、簡単におさらいをすると、武田家が滅亡したのが1582年3月で、豊臣秀吉に臣従した1585年。
このわずか3年間の間に、真田昌幸は、

武田家 → 北条家 → 徳川家 → 上杉家 → 豊臣家

といった感じで、主君を変えている。
しかも、どの大名も、自分よりも完全格上の大大名。
いつ滅ぼされてもおかしくない状況で、家を守り切ったというのはすごいですねー。
まー、ラッキーもあったとは思うけどね。

そんな真田昌幸を、石田三成が「表裏比興の者」と言ったとか。
現代風に読むと「表裏がある卑怯な者」といったところか。
ただ、当時の感覚で言うと「比興」というのは「老獪」とか「ずる賢い」というのが近いみたい。
ということは、実は、これ、誉め言葉なのね。

石田三成、真田昌幸のことを認めていたんだと思う。
自分よりも一回り離れていて、豊富な経験知とか、世渡りのうまさとか、戦においてもあの徳川を打ち負かしたりとか、そんなのを全部ひっくるめて「真田昌幸はすごいやつ」と思っていたんじゃないかな。
分からないけど。。。

僕の中で、真田昌幸と言えば、反骨精神。
とにかく、反徳川の人生だったように思う。

もともと真田昌幸は、武田家の家臣だった。
若い頃から、武田信玄の近習として仕え、その信玄から「わが両目の如し」と言われたとか。
そして、武田家は、ずーっと織田・徳川と戦い続けていた。
ところが、最終的に、武田家は織田・徳川の前に滅亡する。
つまり、織田・徳川は、昌幸にとって憎むべき相手だったかもしれない。

織田信長の死後、甲斐国(今の山梨県)、信濃国(今の長野県)は、火事場泥棒的に攻めてきた徳川の領地となった。
しかも、領土問題で、真田家と徳川家は対立してしまう。
昌幸の反徳川というのは、こういう背景があったのかもしれない。
だとすると、最初っから、昌幸にとって、家康は敵だったのかもしれない。

いや、僕も全然分からないけど・・・
家康のやり口が気に食わないとか
信玄公とは全然違うとか
そんなのがあったんじゃない?

真田太平記だと、犬伏の別れで、昌幸と信之が言い争うシーンがある。

昌幸:石田と徳川、どっちを残した方が豊臣のためになる?
信幸:父上、それなら、石田と徳川、どっちを残した方が天下のためになりますか?
昌幸:ふふふ。どうやら決まったのう。

こうして、昌幸・幸村は石田方、信幸は徳川方に付くことになる。
ただ、幸村の妻は石田三成と懇意の大谷刑部の娘、信幸の妻は徳川四天王の一人の本多忠勝の娘。
ということは、親子で敵味方に分かれることは、既定路線だったかもしれない。

関ケ原の戦いでは、多くの豊臣恩顧と言われる大名が徳川方に付いた。
その中で、真田昌幸は、石田方に付くことを選んだ。
そこには、豊臣家に対する忠義というのもあったように思う。
どのぐらいは分からないけど。

ただ、それ以上に、徳川にだけは天下を取らせてはならない、という一心ではなかったのか。
武田家の領地が徳川家のものとなり、自分たちも徳川によって苦しめられ、これ以上、徳川のわがままを許すわけにはいかないというのがあったんじゃない?

今回はこの辺で。

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