方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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山内一豊~苦労を重ねて、夫婦で勝ち取った土佐国

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 118
戦闘 124
智謀  70
魅力  64
野望  49

えーっと、山内一豊。
この方も、どちらかと言うとマイナーな武将か。
ところで、大河ドラマの「功名が辻」見ていた人いる?
僕は見ていなかったけど。
その「功名が辻」の主人公が、山内一豊。
だから、「ほら、功名が辻の、あの主人公の人・・・」って言えば、分かる人には分かる。

あと、山内一豊の場合、本人よりも奥さんの方が有名だったりする。
内助の功というやつ。
ちなみに、大河ドラマでは、仲間由紀恵が演じていた。

で、改めて、山内一豊の能力値を見てみると・・・
けっこう低い。。。
しかも、智謀に至っては70ってどういうこと?
おかしいだろっ!?

まーね、個人的には、蜂須賀正勝ぐらいの能力はあると思うけど。
100点満点でいえば、75点ぐらい。
僕のイメージでは、目立たない、地味な中間管理職。
しかも、ちゃんと仕事もできるイメージ。

で、この山内一豊について、僕の独断と偏見で書いていきます。

◆この人も転職回数が多い
以前、藤堂高虎が主君替えが多いという話をしました。
そのせいか、後世、評価が低いっていう話。
覚えていますか?(笑)

で、この山内一豊も、すごく主君替えが多い。
ざっと調べた範囲でも、

浅井政貞 → 前野長康 → 牧村政倫 → 山岡景隆 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀次 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼 → 徳川家康

といった感じ。
仕えた主君は10人。
しかも、豊臣秀吉には、2回も仕えている。
ただ、浅井政貞、前野長康、牧村政倫、山岡景隆などは、みんな信長の家臣でもあった。
そういう意味では、一貫して織田家、本能寺の変以後は、豊臣家に仕えている。

で、この一豊、初陣が25才のとき。
姉川の戦いだった。
ちなみに、これ、だいぶ遅い。
もしかしたら、一番遅い部類かも知れない。

で、その後、刀禰坂の戦いでは、顔に由美かおる、じゃなくて、弓が突き刺さる大けがをする。
しかし、大けがを負いながらも、敵将を討ち取る。
そして、近江国(今の滋賀県)に小さな領地をもらう。

で、名前が知られるようになったのが、だいたいこのあたりから。
多分、羽柴秀吉に仕えるようになった頃から。
その後は、秀吉に従い、秀吉の中国攻略に参加している。
このあたり、さーっとしか書かなかったけど、基本的には、秀吉が参戦した戦いには、ほぼ参加している。

で、その功績が認められて、一豊は豊臣秀次の宿老に抜擢される。
豊臣秀次。
一般的には知られていないけど、秀吉の養子で、豊臣家の二代目で、秀吉の次の関白。
つまり、すごい人なわけね。
その秀次に宿老として仕えるということは、相当の能力があったんだと思う。

◆秀次、切腹
ところが、ここで、一豊にとって大変な事件が起きる。
主君である豊臣秀次が、豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられてしまう。
そして、切腹をしてしまう。

但し、事の真相は不明。
僕の中では、本能寺の変ぐらい謎の事件。
本当に、秀次は、謀反を起こそうとしたのだろうか。

事実としては、秀次は、蟄居先の高野山で切腹。
そして、豊臣秀次の関係者は、女・子ども関係なく全て皆殺し。
よほど秀吉の逆鱗に触れるようなことをしたのだろうか。

この事件のとき、一豊と同じく秀次の宿老に前野長康がいた。
そう、この方、一豊の2番目の主君に当たる人。
で、前野長康は、秀次のために、秀吉に弁解を試みた。
そして、これがあだとなって、前野長康にも切腹命令が下ってしまう。
分からないけど、ちょっと間違えれば、山内一豊も同じ運命だったかもしれませんね。

その後、一豊は、再び、秀吉の家臣となる。
忠実に任務を行い、遠江国(今の静岡県)の掛川城5万石の大名として知行を得ている。
そして、城の修築、領内を流れる大井川の堤防工事などにも取り組み、領民たちが安心して暮らしていける町づくりを行ったことが記録として残っている。
知られていないだけで、やはり、能力は高かったと思う。

◆関ケ原の戦い
天下人だった秀吉が亡くなると、徳川家康が台頭してくる。
秀次が亡くなり、秀吉の子・秀頼はまだ幼い。
つまり、豊臣家で、秀吉の後を継いで政治をできる者は、誰もいなかった。
そして、豊臣家は内部分裂をする。
最終的には、徳川家康が関ケ原の戦いに勝利して、ひとまず戦争は終わるけど。

で、この時、全国の大名が、徳川家康と石田三成のどっちに味方するのかを迷うわけ。
で、多分、一豊も迷ったと思う。
秀吉公には大恩があるが、時代の流れは徳川か。。。

一豊は、仲が良かった堀尾忠氏に相談する。
で、堀尾忠氏は「僕は、家康さまに味方する。そして、城も兵糧も全部、家康さまに差し出す」と言う。
それを聞いた一豊は「うーん、自分も徳川に味方した方が良いかも」と思う。

そして、家康が、諸将を集めて軍議を開くと、「諸大名のみなさまには、三成に味方をされたとしても自分は全く恨んだりしない。どうかみなさま、自分の思うように行動して欲しい」って言い放つ。
で、シーンとした場の中で、山内一豊が立ち上がって言うわけ。
「自分は家康さまに味方します。ついては、城も兵糧も全部、家康さまに差し上げます!」

あらっ、どこかで聞いたセリフ、まーいいけど。。。
で、一豊がこんなことを言うもんだから、みんなも「自分も」、「自分も」と言い出す。
結局、徳川方の一致団結に一役買うことになる。
関ケ原の戦いの後、この功績が認められて、土佐国(今の高知県)をもらう。

◆内助の功
昔、一豊が織田信長に仕えていた頃、馬揃えの儀式があったが、一豊は貧乏で馬が買えなかった。
で、妻の千代は、普段からためておいたへそくりで、一豊に立派な馬を買ってやったんだとか。
また、関ケ原の戦いの際には、一豊に手紙を送って、大坂の様子を知らせている。
夫の出世のために、とにかく陰で頑張ったんだとか。
うーん、まさに、妻の鏡ですね(笑)

今回はこの辺で。

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