方丈記に、似た運命

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鴨長明とゆかりの人物③~鴨祐兼

今回は、鴨祐兼について。

悪縁。
これ、仏教用語らしい。
悪い縁、よくない縁、悪い結果をもたらす縁。
そんなとこらしい。

鴨長明と鴨祐兼が、そうだった。
ことあるごとに長明さんの前に立ちはだかる奴。
長明さんがどうしても勝てない相手。
長明さんが顔を見るのも嫌な相手。

「鴨」の字があるから、当然、この方も鴨一族。
でも、たとえ同族でも、「嫌いな奴は嫌い」といったところか。

二人の争いは、20代の頃にさかのぼる。
長明さんがまだ10代だった頃、下鴨神社の正禰宜惣官は、父・長継だった。
ところが、長明さん18歳の時に、父・長継が34歳の若さで亡くなる。
父・長継は、晩年は体調を崩しており、下鴨神社の正禰宜惣官としての務めは果たせなかったとか。
そのため、同じ鴨一族の鴨祐季という者が、父・長継の代理をしている。
その後、父・長継が亡くなると、鴨祐季が、正式に下鴨神社の正禰宜惣官となる。

それからすぐに、下鴨神社は、比叡山延暦寺と土地を巡って争う。
下鴨神社と延暦寺。
すぐそばではないけど、勢力範囲としては隣どうしの関係。
で、昔から、争うことも少なくなかったとか。

で、この争いは、喧嘩両成敗となり、それぞれの責任者が責任を取らされることになる。
そして、鴨祐季は、責任を取って、下鴨神社の正禰宜惣官の職から下りる。
で、ここから、長明さんと鴨祐兼の争いが始まる。

詳しいことは分からないけど、争いは、何度かあったと思われる。
具体的に何回かあったかは分からないけど。
で、長明さん、どうしても鴨祐兼に勝てなかった。
当時、出世をするには父親の存在が絶対だったらしい。
長明さんには、その父親がいなかったことが、敗れた原因と言われている。
そうこうしている内に、鴨祐兼の方が、下鴨神社の正禰宜惣官になってしまった。
ここに、長明さんの、神職の道での出世は完全に断たれる。

出世競争に敗れた長明さん。
方丈記には、「身衰え、縁欠けて」としかないけど、住んでいた家を追い出されている。
もともと、その家は父方の祖母の家で、その家を相続するという約束だった。
だけど、家族からも愛想をつかされたのだろうか。
長明さん、その家に留まることもできなかった。
30歳を過ぎた頃だった。

その後、下鴨神社で、歌会が開かれたことがあった。
テーマは「月と川」。
そこで、長明さんは、次のような和歌を詠みます。

【原文】
石川の 瀬見の小川の きよければ 月もながれを たずねてぞすむ

【訳】
石川の瀬見の小川の流れがあまりにも清らかで美しく、月もその流れをじっと見つめている。

原文では分からなくても、訳を読むと情景が浮かばないですか?
夜の川の流れ、せせらぎの音、水面に映った美しい月の姿などが、目に浮かぶ感じがします。
また、癒しを感じませんか?
僕だけ?

それで、この和歌、評価は高かった。
ところが、参加者たちは、首をかしげる。

「瀬見の小川って、どの川?」

結局、その場では、これが分からなくて、その歌会での勝負は、一旦保留となる。
後日、長明さんは、その時の歌会の判定者に、下鴨神社の古い書物を見せて、「瀬見の小川とは、鴨川のことです」と説明する。
「ほら、ここにそう書いてあるでしょ」と。

それで、長明さんの和歌は、「やはり素晴らしかった」という評価で落ち着く。

ところが、これを知った鴨祐兼が怒るのね。

そもそも、瀬見の小川と言う表現は、下鴨神社内の秘密の言い回しである。
そして、天皇や大臣がいるような大事な歌会で使う表現である。
それをこんな小さな歌会で使うとは、考えが浅い!!

ところが、後日、多くの歌人が、この「瀬見の小川」という表現はいいねと言い出す。
しかも、みんなが、真似をし出した。
で、鴨祐兼が、長明さんにまた次のように言うのね。

お前さ、自分が「瀬見の小川」を使い出して、ちょっといい気になっているかもしれないけど、今となっては、お前が最初に使い始めたってこと、みんな知らないからな。
まー、ご苦労なこったなー。

これが、「瀬見の小川事件」というやつ。

書き方が、嫌味っぽく書いたけど、本当は、鴨祐兼は、長明さんのことを思っての発言かもしれないので。

で、次が最後。
一般的には、「河合社禰宜事件」というやつ。

長明さん、40代半ばにして、和歌所寄人に選ばれる。
長明さんにとっては、すごく名誉・栄誉なことだったと思う。
で、長明さん、とにかく仕事を頑張った。
源家長日記にも、そう書いてある。

それで、後鳥羽上皇が、長明さんに褒美を与えようとする。
それは、長明さんの、河合神社の禰宜への推薦。
で、長明さん、涙を流して喜ぶ。
嬉しくて、嬉しくて、涙そうそうだった。

長明さん、若い頃に、神職の道をあきらめた。
ところが、50才目前になって、再び、神職の道が開かれようとしている。
しかも、この河合神社の禰宜というのがよくて、父・長継も河合神社の禰宜から、下鴨神社の正禰宜惣官になっていた。
今まで、負け組の人生を歩み続けた長明さん。
ついに、ここから、奇跡の大逆転が始まろうとしていた。

ところが、これも失敗した。

やはり、また、鴨祐兼だった。
鴨祐兼は、自分の息子を河合神社の禰宜に推薦してきた。
で、最終的に、後鳥羽上皇の推薦状がありながらも、長明さんは、下鴨神社の禰宜になることができなかった。
ここに、長明さんの、神職の道は完全に潰えることになる。

今まで、ずーっと不遇の人生を歩んできた長明さん。
まさか、50才目前で、奇跡の大逆転かと思いきや、まさかのカウンターパンチを喰らってKO負けとなる。
これね、相当ショックだったと思う。
年齢的にも、これが最後と思っていたんじゃない?

この後、長明さんは、和歌所寄人の職さえも捨てて、大原で出家生活をすると、最期の地・日野に移る。

分からないけど、長明さんが、少しでも下鴨神社の仕事をしていれば、また違った展開だったかもしれないけど。
でも、それだと、長明さんじゃないか。。。

今回はこの辺で。

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