方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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抑、一期の月かげ傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに、

【原文】
抑、一期の月かげ傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに、三途の闇に向かはんとす。なにのわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、さばかりなるべし。いかが、要なき楽しみをのべて、あたら、時を過ぐさむ。

【訳】
さて、私の一生も、月が傾いて山の端に近付くように、残りわずかとなってきた。そう遠くなくして三途の闇に向かうことになるだろう。今さら自分の人生を嘆くこともないだろう。仏教では、我を捨てることが大切だと考える。今、私が、方丈の庵や閑寂な環境に居心地の良さを感じるのも、このあたりで止めておくべきだろう。これ以上無駄に楽しみを述べて、せっかくの大切な時間を無駄に過ごす必要もないだろう。

【わがまま解釈】
この方丈記も、いよいよ今回と次回で終わり。
そう思うと、少し淋しい気もするね。。。

長明さん、自分の人生も残りわずかと書いている。
しかも、そのことを月にたとえてうまく表現している。
月が傾いて山に近づくように、自分の人生も残りわずかとなった。
月が完全に沈めば、自分も死ぬことになるだろうと。
とても表現が想像しやすくないですか。
イメージとしてわきやすい。

長明さん、どこかの回で、月を見ながら亡くなった人を思い出すと書いていた。
当時の平均寿命が40歳前後。
方丈記を書いたのが58歳あたり。
それを思うと、長明さんは、かなりの長生き。
長生きした分だけ、多くの人と死に別れたことだろう。
そして、今、自分も少しずつではあるが、死に近づいていることをしみじみと感じている。

遠からずして、三途の闇に向かうとある。
よく「三途の川」というのは聞くけど、「三途の闇」は聞いたことがなかった。
一般的には、三途といえば「死後の世界:あの世」だろうか。

その三途の闇だけど、あの世に行くためには、どうしても通らないといけない道らしい。
で、その道が、どうも恐ろしい世界らしい。
しかも、三つもあるんだとか。

・火途・・・地獄道とも。疑獄の火に焼かれる世界
・刀途・・・餓鬼道とも。武器(刀)で刺される世界
・血途・・・畜生道とも。血まみれになって争う世界

まー、僕みたいにろくでもない人間は、間違いなく、焼かれて刺されて、血まみれになるだろうけど。。。

ていうか、今も十分三途の闇なのに。
死んでもまた三途の闇って。
なんか、つらいなー。

で、次が「なにのわざをかかこたむとするとある」。
これ、僕には、難しかった。
だいたい、最初見た時、どこで区切っていいかも分からなかった(笑)
これ、漢字にすると次のようになる。

「何の業をか託たむとする」

「業」というのは、行い、行動、行為といったところか。
ただ、どうも前世からの行いという意味もあるらしい。

「託たむ」は、こじつけるということ。
今でも、「○○にかこつけて言うな」なんて言う。
そう、かこつけるとは、「託ける」なのね。
いやー、全然知らなかった。

つまり「何の業をか託たむとする」とは、

もうすぐ自分はあの世に旅立つのだから、今さら、自分の人生を振り返ったり、嘆いたり、あーだこーだということもないだろう。

といったところか。

なんか、だいぶ雰囲気が、終わりっぽくなってきた。

ここで、長明さん、仏教について言及する。
仏教で大切なことは、物事に対して執着心を持たないということ。
我を捨てるとかもそう。
仏教では、偏らないことを大切にする。

それで、仏教の開祖のお釈迦様の教えに「筏のたとえ」というのがある。
これは、自分の教えは向こう岸に渡るための筏のようなものであるから、向こう岸にたどり着いたなら筏は捨てて行きなさいというお話。
つまり、たとえ自分の教えであっても必要がなくなれば捨てなさいというお話なのね。
僕は宗教に詳しくないけど、自分の教えすら捨てなさいというのも珍しいのではないか。

長明さん、前回まで、方丈の庵やそこでの生活について書いていた。
ここでの生活はいいよーなんて書いていた。
「でも、そうは言っても、ちょっと・・・」みたいなことも書いていた。
ところが、「ここでの生活の良さは、住んだ者しか分からない」とも書いている。

なんだろう、たとえが相応しくないかもだけど、花びらを一枚ずつちぎって、好き、嫌い、好き、嫌い、好き、でも、嫌い、やっぱり好き、やっぱり嫌い、みたいな。。。

一体、ここでの生活は、良いのか悪いのかどっち?

で、これ以上、ここでの生活について色々と言わない方が良いだろうと書いている。
自分がここでの生活を気に入っている様子を書いて、これ以上、残りわずかな大切な時間を無駄に費やす必要もないとある。
どうやら、再び、揺り戻しがきそうな雰囲気。
発心集の「貧男、差図を好む事」みたいな感じがする。

仏教の教えに従うならば、方丈の庵にも閑寂な環境にも執着してはならないのだろう。
長明さんは、実際はともかく、仏道修行に励む出家者。
方丈記の最後には、「出家者・蓮胤」が書いたとある。
鴨長明が書いたのではなく、書いたのは「出家者・蓮胤」だと。

長明さん、方丈記の前半では、五大災厄について書いた。
そして、こんな危ない都で家を建てることが、どれだけ意味がないかをを書いた。
そして、別に、僕は、家にこだわりはありませんからと言う。
で、方丈の庵を建てる。
そしたら、「ほらね、家なんて小さくても十分でしょ」と言うのね。
「やっぱり、家は、こだわらない方がいいよね」と。

でも、これって、本当は、むちゃくちゃ拘っているのかもしれない。
うん、絶対、気にしているって。
だって、気にしていないなら書かないって。
そもそも、気にしてない気にしてないと言いながら、ほとんど家の話だし。

再び、たとえが悪いかもしれないけど、女の子どおしの会話で、

「○○君のこと、好きなんじゃないの?」
「どこが?あんなやつ嫌いよ!」
「そうなの?なんか好きなのかなーって・・・」
「だから、嫌いだって!」
「じゃー、なんでそんなにムキになるの?」
「知らないわよ、そんなこと。とにかく嫌いだから!」

っていうパターンで、実は、やっぱり好きだったみたいなのと同じじゃないの。
実際、女の子たちが、こんな会話をしているのかは知らないけど。。。

すみません。
なんか例えが俗っぽくて。

今回はこの辺で。

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