方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/hojoki/05/ 


鴨長明~人生の斜陽

今回は、鴨長明の紹介。

いきなり、方丈記の話をしてもいいんだけど、まずは、軽く、鴨長明の紹介から入ろうかなと思ってね。
一応書くと、何回かにかけて書くので、このシリーズ、しばらく続くから。
退屈かもしれないけど、我慢して読んでください。

それで、ほとんどの人は、古典の教科書にも載るような人だから、すごい人だと思っている。
実際、僕も、そう思っていた。
でも、調べてみたら、全然違っていた。

実は、この人、人生の負け組。
むちゃくちゃ相当負け組。

ただ、長明さん、最初から負け組だったわけではない。
むしろ、最初は、勝ち組からスタートしている。

長明さん、下鴨神社の正禰宜惣官だった鴨長継の子として生まれる。
つまり、鴨長明の「鴨」は、下鴨神社の「鴨」。
長明さんは、その下鴨神社という名門社家の御曹司だった。

下鴨神社といえば、今でも存在する日本屈指の神社。
僕の中では、伊勢神宮、出雲大社、下鴨神社は、日本で最強の神社だと思っている。
まー、何をもって最強というのかは、テキトーに書いたから知らないけど。。。
まー、それぐらいすごい神社の跡取り候補として、長明さんは生まれる。

それで、長明さん、7歳の時に、朝廷から従五位下の位をもらった。
これ、どうも、すごいことらしい。

従五位下の位をもらった年齢を比較すると、

当時、政権トップだった平清盛の場合・・・・・12歳
その平清盛の長男だった平重盛の場合・・・・・14歳
平清盛のライバルだった源義朝の場合・・・・・31歳
その源義朝の三男だった源頼朝の場合・・・・・13歳

これらと比較すると、長明さんがどれほどすごいのかが分かる(らしい)。

それで、長明さん、時期不明だけど、若くして結婚もしていた。
子どももいたみたい。
方丈記には書かれていないけど、長明さんが残した和歌には、そんなことが書かれてあるらしい。

きっと、長明さん、幼いころから何不自由のない生活をしてきたと思うのね。
そして、幼いころから英才教育を受けてきたと思う。
もちろん、周囲からの期待も大きかったと思う。
長明さん自身、お父さんの跡を継いで、神職の道へ進もうと思っていたみたいだし。
で、結婚して、子どもにも恵まれる。
あとは、お父さんと同じ道を歩めば、人生は、勝ち組で終わるはずだった。

ところが、長明さんが、17歳の時に、父・長継が病気で亡くなる。
で、長明さんの勝ち組の人生もここまでだった。
長明さんの人生を振り返ると、ここまでの人生が、あまりにも出来過ぎだった。
で、後は、万事が全て下り坂となる。

僕なんかは、長明さんを見ていると、敗北必至の戦いに挑むような感じすらする。
その中で、戦の興奮に憧れるように、ひとり黄昏の戦場をさ迷うような、そんな印象を受ける。
最後の一兵まで、矢尽き刀折れるまで戦うという感じか。
だいぶかっこよく書きすぎただろうか。。。

それで、ここからは、お父さんが亡くなってからお話。
当時は、出世するためには、父親・母親の存在が重要だったらしい。
また、父親と母親の身分も重要だったらしい。

で、長明さんの場合、父親を亡くした。
母親については、記録はない。
もしかしたら、身分の低い人だったのかもしれない。

長明さん、父・長継が亡くなった後に、父・長継の後任となる正禰宜惣官の地位を巡って、同族の鴨祐兼と争う。
そして、長明さん、これに敗れてしまう。

で、その後、長明さんは、どうもニートのような生活をしていたらしい。
当時、源家長という人が「源家長日記」という日記を付けていた。
なんかそのまんまのタイトルだけど。。。

で、それによると、長明さんについて、次のような文章がある。
「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、」

これだけだと、サンドイッチマンでも意味が分からない。
というわけで、訳してみると、次のような感じ。

「だいたい、この長明というのは、みなしごで、下鴨神社の仕事もせずに、部屋にずーっとこもってばっかりだった」

つまり、源家長は、あるいは、当時の人々は、父を失った長明さんを「みなしご」と認識していた。
「みなしご」ってことは「孤児」ですよ。
いや、決して「孤児」ではないんだけど、当時はそう思われるような社会だったのかもしれない。
そして、下鴨神社の仕事もせずに、部屋にずーっとこもってばかりだったらしいのね。

あのね、さっきも書いたけど、長明さん、妻子はいたんです。
にもかかわらず、ニート生活をすれば、奥さん、怒るよね。
で、実際、怒られた。
で、どうなったかというと、ついに家を追い出された。

方丈記によると、次のように書かれてある。

「わかがみ、父かたの祖母の家をつたへて、久しくかの所に住む。その後、縁欠けて、身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事をえず。三十余りにして、さらに我が心と、一の庵をむすぶ。」

で、これを訳すと、次のような感じ。

ここからは私の身の上についてお話をしようと思う。
私は、父方の祖母の家を相続するということで、長年そこに住んでいた。
しかし、その後、色々とあって縁が切れ、社会的にも経済的に没落してしまい、色々と思うところはあったけど、相続については諦めることにした。
30歳を過ぎてから少し思うところがあって、一つの小さな家を造った。

で、こうして読むと、
たかだかお父さんが亡くなったくらいで、生きる気力をなくして情けない。
しかも妻子がいるのに、働きもせずにニート生活をして情けない。
家を追い出されるのも当然。
・・・って、ふつーの人は、そう思うかもしれない。

しかも、働きもせずに、趣味の和歌や音楽には夢中だった。
いやー、これ、本当に最悪だと思う。
せめて、働いてくれって思う。
完全なるダメ人間。

でも、長明さんの不思議なところは、ダメ人間だけど、それだけではないというところ。
例えば、さっき書いた和歌や音楽については、その腕前は超一流。
ミシュランガイドなら、三ツ星。
テキトーに書いたけど。。。

しかも、長明さん、方丈記だけでなく、十訓抄、無名抄、発心集などの作品も残している。
また、和歌だって、たくさん残している。
決して、遊んで暮らしていたわけじゃないのね。

どう?
ちょっとは、長明さんの良さが伝わった?

で、そんな長明さんに、ついに幸運がやってくる。
それは、後鳥羽上皇の和歌所寄人に選ばれたことからはじまる。

今回はこの辺で。

次のページ>>鴨長明~人生の反撃
前のページ>>方丈記の原文

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう