方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/amono-tyomei/32/ 


発心集~貧男、差図を好む事①

前回、「蓮花城、入水の事」の話をした。

今回は、「貧男、差図を好む事」について。

この話は、方丈記との関連性を指摘される作品だとか。
方丈記も、この「貧男、差図を好む事」も、テーマは「家」となる。
長明さんにとって、家は、永遠のテーマだったのか。

長明さんのご先祖・慶滋保胤は、池亭記を書いた。
やはり、ここでも「家」に関する記述は多い。
長明さんの家へのこだわりは、慶滋保胤ゆずりなのか。

というわけで、まずは、「貧男、差図を好む事」の原文から。

【原文】
近き世のことにや、年は高くて、貧しくわりなき男ありけり。司などある者なりけれど、出で仕ふるたつきもなし。さすがに古めかしき心にて、奇しきふるまひなどは思ひよらず。世執なきにもあらねば、また頭下さんと思ふ心もなかりけり。常には居所もなくて、古き堂の破れたるにぞ舎りたりける。

つくづくと年月送るあひだに、朝夕するわざとては、人に紙反故など乞ひ集め、いくらも差図をかきて、家作るべきあらましをす。「寝殿はしかしか、門は何かと」など、これを思ひはからひつつ、尽きせぬあらましに心を慰めて過ぎければ、見聞く人は、いみじきことのためしになんいひける。

まことに、あるまじきことをたくらみたるははかなけれど、よくよく思へば、この世の楽しみは、心を慰むるにしかず。一二町を作り満てたる家とても、これをいしと思ひならはせる人目こそあれ、まことには、我が身の起き伏す所は一二間に過ぎず。そのほかは、みな親しき疎き人の居所のため、もしは、野山に住むべき牛馬の料をさへ作りおくにはあらずや。

かくよしなきことに身をわづらはし、心を苦しめて、百先年あらんために材木をえらび、檜皮、瓦を玉、鏡とみがきたて、何の詮かはある。主の命あだなれば、住むこと久しからず。あるいは他人の栖となり、あるいは風に破れ、雨に朽ちぬ。いはんや、一度火事出で来ぬる時、年月のいとなみ、片時の間に雲烟となりぬるをや。しかあるを、かの男があらましの家は、走り求め、作りみがく煩ひもなし。雨風にも破れず、火災の恐れもなし、なす所はわずかに一紙なれど、心を宿すに不足なし。

龍樹菩薩のたまひけることあり。「富めりといへども、願ふ心やまねば、貧しき人とす。貧しけれども、求むることなければ、富めりとす」と侍り。書写の聖書きとめたる辞に、「肘をかがめて枕とす。楽しみ、その中にあり。何によりてさらに浮雲の栄耀を求めん」と侍り。また、あるものには、「唐に一人の琴の師あり。緒なき琴をまぢかく置きて、しばしも傍らを放たず。人あやしみて、故を問ひければ、「われ、琴を見るに、その曲心に浮かべり。その故に、緒なけれども、心を慰むることは弾ずるに異ならず。」となんいひける」

かかれば、なかなか、目の前に作りいとなむ人は、よそ目こそ、「あなゆゆし」と見ゆれど、心にはなほ足らぬこと多からん。かの面影の栖、ことにふれて徳多かるべし。

ただし、このこと、世間のいとなみにならぶる時は、賢こげなれど、よく思ひとくには、天上の楽しみ、なほ終わりあり。壺の内の栖、いと心ならず。いはんや、よしなくあらましに、むなしく一期を尽くさんよりも、願はば必ず得つべき安養世界の快楽、不退なる宮殿、楼閣を望めかし。はかなかりける希望なるべし。

ここまでが原文。
で、ここからは訳。
といっても、僕の適当な訳だから。
まー、だいたいは、伝わると思うから。

近頃、あるところに、歳を取って、貧しくて、どうしようもない奴がいた。
一応、官位はあったが、仕事に就くことができない。
だからといって、古い人間なので、下品なことは思うこともない。
ふつーの生活をあきらめることもできなかった。
だから、思い切って出家するということもしなかった。
それで、ふだんは、決まった家もなく、古びたお堂で生活をしていた。

とにかく、することがない。
ただ、月日だけが流れていく毎日。
で、その者が、どういう生活をしているかというと、毎日、人から紙くずをもらっていた。
で、それに家の設計図を書いて、家を建てる計画を立てていた。

母屋はこう建てる。
門は、こういう門にする。
そんなことを思いながら、ひとり楽しんでいた。
で、これを聞いて、人々は「それのどこが面白いんだろうか?」と言っていた。

確かに、世間の人からすると、こういうことはつまらないことだろう。
しかし、面白いかどうかというのは、本人が満足すること、これが最も重要である。
立派なお屋敷を建てて、「すごいなー」と思う人もいるだろう。
でも、生活をする上では、自分が寝起きするスペースがあれば、それで十分だろう。
あとは、親しい者、大して親しくもない誰かのためのスペースだったり、野山の牛馬のために作っているようなものではないか。

自分からすると、たとえ立派なお屋敷を建てたとしても、そんなにすごいとは思えない。
建てた家が、この先、ずーっとあり続けられるようにと、良質の木材を使用したり、屋根をピカピカに磨くことに、何の意味があるだろうか。
家と比べれば、住人の方が寿命は短く、いつまでもそこに住むことはできない。
自分の家が他人の家になることもあれば、雨風で壊れることだってある。
まして、火事にでもなった日には、どれだけ時間をかけて大切に建てたところで、一瞬にして、雲や煙のように消えてしまう。

そう思うと、この男の想像の家は、せわしく何かをすることもなく、屋根を磨く必要もなく、雨風の心配もいらない。
火事の心配もいらない。
たった一枚の紙。
でも、心を住まわせるには十分だろう。

龍樹菩薩は、次のように言われた。

「たとえ物が豊かであっても、心が欲でいっぱいなら、それは貧しい人である。また、たとえ貧しくても、心に欲がなければ、それは豊かな人である」と。

播磨国の書写山の性空上人が書き留めた言葉には、次のようなものがある。

「片肘を曲げて枕とする。全ての楽しみはここにこそある。これ以上、浮雲のような栄華を求めてどうするというのだ」

また、こういう話もある。

中国に、ひとりの琴の師匠がいた。そして、弦のない琴をいつもそばに置いていた。ある人が不思議に思って理由を聞いた。
すると、その琴の師匠は次のように答えた。
「自分は、琴を見ると、曲が心に浮かんでくるんですよ。だから、自分にとって、琴を見ることは琴を弾くことと同じなんですよ」

こうしてみると、目に見える「もの」というものは、人の目にはすごいと見えるかもしれない。
しかし、その実、心は満たされておらず、何か足りないと感じることが多いのではなかろうか。
それを思うと、あの男の紙の家の方が、何かにつけて満足を与えてくれるだろう。

と、まー、色々書いてみた。
ただ、これなんかも、こういう角度で見れば、楽しみ方としてはいいのかもしれない。
しかし、楽しみというのはいつかは尽きる。
昔の故事にもあるけど、壺の中に入ったら存在した立派な建物にも、長くは居られないのだ。
だとすると、つまらない想像だけをして一生を終えるよりも、願えば叶うであろう極楽の楽しみを望むべきではないか。
修行をして、極楽浄土の立派な建物を望むべきではないか。
そう思うと、あの男の紙の家も、いい楽しみ方とは言っても、結局は、はかない楽しみにすぎない。

以上が訳。

で、ここからは、僕が、この作品を通して思ったことを書きます。
大したことは書けないけどね。

まず、方丈記と重なる点としては、家に対するこだわり。
方丈記を読んだだけでも、長明さんの家へのこだわりはよく分かる。
それが、この作品を読んでも、やっぱりそうだなって思ってしまう。

今でもそうだけど、家を建てて一人前みたいなところはある。
しかも、長明さんの場合、自分の家は、小さくなる一方だった。
だから、よけいに家へのこだわりは強い部分はあるかもしれない。

今回はこの辺で。

次のページ>>発心集~貧男、差図を好む事②
前のページ>>発心集~蓮花城、入水の事

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう