方丈記に、似た運命

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斎藤実盛~木曽義仲が号泣した老将の最期

えーっと、今回は、斎藤実盛。
この斎藤実盛、知っている人は少ない。
正直、僕も、知らなかった。
でも、意外なところで知っていた。

少し、話が脱線するけどいい?
僕の母方の里は、城川町といって四国山地の山奥の山村なのね。
で、この城川町では、虫送りという一大イベントがある。
その虫送りのことを、地元民は「実盛さん」って言ったりする。

で、僕は、幼い頃、なんで「実盛さん」なんだろうって思っていた。
そもそも、実盛って誰?
そんなことを思っていた。
でも、深く追求することもなく、ずーっと放置したままだった。

ところが、最近になって、方丈記とか平家物語とかを読みだした。
そしたら、平家物語に「実盛最期」というお話があった。
で、僕は、「実盛って・・・」となった。
で、実盛について調べてみたら、「実盛最期」の実盛が斎藤実盛であることが分かった。
つまり、この斎藤実盛こそが「実盛さん」だったのね。

そんなわけで、思いがけない展開で、幼い頃の疑問は解決された。

で、この斎藤実盛。
平安末期の武将で、平家物語では一つの章を割いて斎藤実盛の最期を書いている。
とにかく平家物語では、この斎藤実盛は名将として書かれてある。
そして、僕の中では、斎藤実盛、平敦盛、安徳天皇の三人の最期を、平家物語の三大悲劇だと思っている。
まー、話としては、出来すぎた感がないわけでもないけど。

この斎藤実盛。
もともとは、武蔵国(今の埼玉県)に領地を持つ武将だった。
で、この武蔵国(今の埼玉県)が、平安末期には微妙な地域だったらしい。
上野国(今の群馬県)と相模国(今の神奈川県)に挟まれ、緩衝地帯としての性格があったらしい。
それで、当時、相模国(今の神奈川県)は、源義朝が支配していた。

この源義朝の父は、源為朝だった。
この二人、親子だけど、とても仲が悪かった。
それで、源為朝は、源義朝をけん制するために、源義賢(為朝の次男で義朝の弟)を上野国(今の群馬県)に送り込む。

それで、斎藤実盛。
はじめは、源義賢の家臣だった。
ところが、1155年、源義朝と源義賢の間で、大蔵合戦が起こる。
その結果、源義賢は敗れて殺されてしまう。
そして、斎藤実盛は、今度は、源義朝の家臣となる。

ところが、この時、斎藤実盛は、源義朝から「源義賢の子・駒王丸を殺せ」と命令を受ける。
駒王丸は、まだ2歳だった。
しかも、かつて仕えた主君の子ども。
斎藤実盛は、駒王丸を殺すことができなかった。
最終的に、駒王丸の養父となる中原兼遠の元に、駒王丸を密かに逃がした。

そして、1159年。
今度は、平治の乱が起こる。
これは、朝廷内での後白河法皇と二条親政派の権力争いだったけど、最終的には、どちらの勢力も共倒れをしてしまう。
そして、この争いで、漁夫の利を得る形になったのが平清盛。
しかも、この争いで、斎藤実盛の主君だった源義朝は、平清盛に敗れてしまう。

その結果、源義朝は、本拠地の東国に逃げるんだけど、この時、実盛も一緒に逃げている。
戦いに敗れて、一緒に逃げるということは、義朝の重臣だったのかもしれない。
テキトーに書いたけど。

ところが、源義朝は、途中で暗殺をされてしまう。
実盛は、何とか落ち延びるも、もはや仕える主君もいない。
それで、経緯は不明だけど、今度は、平家に仕えるようになる。
そして、しばらくは、平家方の武将として安定した生活を送ったらしい。

ところが、再び、ここで事件が起きる。
平氏政権のトップだった平清盛が、病に倒れて亡くなってしまう。
そして、これに乗じて、各地で反平家の動きが活発になる。
しかも、かつての主君・源義朝の子である源頼朝が、反平家の旗揚げをする。

義朝の旧恩を思うなら源氏につくことになる。
清盛の恩を思うなら平家につくことになる。
実盛、きっと、悩んだと思うのね。
で、最終的に、平家の味方をする。

そして、平家の一員として、総大将・平維盛の後見役として戦場に向かう。
いわゆる富士川の戦い。
平家物語によると、平家軍は7万の軍勢って書いてんだけど、実際のところは4千ほどだったとか。
ちなみに、玉葉によると、平家2千に対して、源氏は4万とある。

いずれにしても、単純に兵力だけを見れば、平家に勝ち目はない。
しかも、全国で反平家の動きが活発になる中、平家軍の士気はすこぶる低かった。
結局、平家は、戦わずして敗れてしまう。

それで、東海道で敗れた平家は、今度は、北陸道で源氏と戦う。
平家の総大将は、富士川の戦いと同じく平維盛。
そして、実盛も、後見役として平維盛に付き従う。

この北陸道。
平家にとっては、生命線だった。
養和の大飢饉に見舞われ、平家にとっては、食糧を確保するために、どうしても押さえておくべき重要な地域だった。
しかも、北陸道から都へ入ろうとする源氏を封じ込めるためにも、絶対に落とせない地域だった。
北陸道を押さえれば、都を守ることができる。
逆に、北陸道を突破されたら、都を守ることはできない。

源氏の総大将は、木曽義仲だった。
で、平家は、初戦の火打城の戦いでは勝利する。
ところが、次の般若野の戦いで、平家は敗れてしまう。

ただ、平家としては、北陸道をやすやすと放棄するわけにはいかなかった。
敗れはしたものの、態勢を立て直すと、再び、木曽義仲軍と戦う。
これが、倶利伽羅峠の戦い。
そして、平家は、この戦いで惨敗を喫してしまう。
もーね、何ていうの、わざわざ惨敗するために態勢を立て直した感じ。。。

そして、続く篠原の戦い。
ここでも平家は敗れてしまう。
そして、この篠原の戦いが、斎藤実盛の最期の戦いとなる。
実盛、最期の戦いぐらいは、若い者に負けないぐらい戦いたいと、白髪を黒に染めてから戦いに臨んだとか。
ちなみに、年齢は70歳を超えていたみたい。

平家軍が総崩れになる中、実盛は、必死に戦った。
しかし、ついに木曽義仲軍によって討たれてしまう。
そして、斎藤実盛の首は、木曽義仲の前に運ばれた。
で、木曽義仲、その首をいぶかしげに見つめる。

それで、木曽義仲、ふと近くの池でその首を洗ってみた。
すると、見る見るうちに、髪の毛が白髪になっていく。
そして、完全に顔の様子が分かる。
で、それを見るや否や、木曽義仲の目から涙が溢れた。

というのも、斎藤実盛が助けた当時2歳だった駒王丸。
実は、木曽義仲こそが、大人になった駒王丸だった。
そして、木曽義仲は、かつての命の恩人を討ち取ったことに、人目もはばからず号泣したと平家物語にはある。

今回はこの辺で。

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