方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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武田勝頼~戦国最強を謳われた悲運の名将

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 128
戦闘 180
智謀  96
魅力  84
野望  89

今回は、武田勝頼ですか。
いやねー、どーしても武田勝頼って、父・信玄が偉大過ぎて、陰に隠れている。
いわゆる、皆既日食。
信玄様は見えるが、勝頼さまは見えぬ、はて?
って感じ。

しかも、武田家を滅亡させたことで、後世の評価は低い。

特に甲陽軍鑑。
作者と言われている高坂昌信は、武田家の宿老。
で、その中で勝頼のことを、「強すぎる武将」、「慎重さに欠ける」、「一部の家臣をかわいがった」と書いている。
もう少し、良いように書いてあげたらって思うけど。
勝頼の評価が低い原因の半分は、甲陽軍鑑のせいだから、多分。。。

ちょっと話をそらすね。
昔、おんな風林火山というドラマがあった。
ちなみに、裏番組は、大河ドラマ史上、平均視聴率第一位の独眼竜政宗だった。
で、おんな風林火山、視聴率が低迷して、最終回を待たずに打ち切りになった。

このドラマで、武田勝頼を演じていたのは美木良介だった。
ロングブレスダイエットの人ね。
で、このドラマ、大映テレビが製作していた。
いつものナレーションから始まり、大映テレビお抱えの俳優が顔をそろえていた。
しかも、主人公の松姫役は、鈴木保奈美が演じていた。
それで、僕の中ではとても好きなドラマでだったのね。

で、翌年、大河ドラマは武田信玄だった。
武田信玄を中井貴一、上杉謙信を柴田恭兵、武田勝頼を真木蔵人。
それ以外にも、もう主役級の俳優が、惜しげもなく投入されていた。
そして、武田家宿老の馬場信房が・・・美木良介。
美木良介って、何か武田家の武将にピッタリのイメージでもあるの?
まー、どっちの美木良介も好きだったけど(笑)

と、一通り雑談をして、本題へ。
武田勝頼、個人的には大好きなんです。
個人的には、再評価してあげたい一番の武将。
父・信玄が残した負の財産に翻弄される。
重要な局面で下した判断が裏目に出る。
結果、織田・徳川・北条に攻め込まれて37歳の若さで天目山で自害する。
なんかねー、時代にも信玄にも翻弄された印象がある。

いやね、武田勝頼って信玄の四男だった。
で、もともとは養子に出して、他家を継いでいた。
それが、信玄と嫡男・義信が駿河攻めを巡って争い、義信は自殺する。
次男は盲目。
三男は夭折。

で、武田家を継ぐ者がいない。
それで、慌てて当主にしたのが勝頼。
そりゃー、勝頼も、正直、マジかっ!って思ったんじゃない?

それで、ここで三方ヶ原の戦いから、武田家滅亡までの年表を見てみると、だいたい次のような感じ。

1572年 父・信玄織田・徳川連合軍を破る。
      (三方が原の戦い)
1573年 父・信玄死去。
      信長が息を吹き返し信長包囲網が崩壊する。
1575年 織田・徳川連合軍と戦うも、大敗する。
      (長篠の戦い)
1578年 上杉謙信死去に伴い、御舘の乱が発生する。
      その結果、武田家は北条家と対立する。
1580年 織田家と和睦を試みるも無視される。
1581年 新府城を築城する。
1582年 織田・徳川連合軍が一斉に武田家を攻撃する。
      家臣の寝返りが相次ぎ、新府城を捨てる。
      天目山の戦いに敗れて勝頼自害。武田家滅亡。

武田家って、大事なところで家臣たちが勝頼を裏切るわけ。
家臣といっても、武田一門なんだけど。
つまり、本来であれば、一番、武田家のために戦うべき人たちが、次々と武田家を裏切るわけ。
これは、もう勝頼がどうこうできるレベルじゃないですよ。

特に、武田家って、ソッコーで滅ぼされた。
で、これを勝頼が弱すぎたと指摘する人もいる。
でも、本当かな。。。

武田家って滅亡直前まで、甲斐、信濃、駿河、上野と、(一応)四か国を支配していた。
武田家が瞬殺されたのは、あくまでも結果論ではないのか。
当時は、誰も、武田家を瞬殺できるとは思っていなかったんじゃないのか。
実は、眠れる獅子として、最後まで恐れられていたのではないか?
という立場で見ると、次の様な記事を読んだことがある。
まー、あやふやなネタなら、ごめんなさいね。

・北条氏政は、滅亡寸前の武田家に押され気味で、このままでは当方は滅亡すると書いている。
・北条氏政は、本当に武田家が滅亡寸前なら、当方に降る者が出てきても良いのに、誰もいないと書いている。
・北条家の宿老だった松田憲秀の子・笠原政尭は、武田家滅亡の5か月前に、武田家に寝返っている。
・織田信長は、武田勝頼の実力を認めており、上杉謙信にもそれを伝えている。
・織田信長は、武田征伐に際して、嫡男・信忠に「勝頼は必ず決戦を挑んでくるから、決して油断しないように」と注意をしている。

で、最後に、大久保彦左衛門が書いた言われる三河物語。
それによると、信長は次のように言ったそう。
「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」

僕は、ツキみたいなレベルじゃなくて、もう完全に天運に見放されてしまった。
そんな感じがする。
あの項羽の「自分たちは弱くて負けたんじゃなくて、天運がなくて敗れただけ」っていうセリフが思い出される。

ただね、その原因の大部分は、信玄にあるように思う。
それは、家督相続。
勝頼を次期当主として、きちんと教育したんだろうか。
勝頼って、最後まで武田家の一家臣だったように思うんだけど。
信玄が家督を譲って、後見役として指導したという話も聞かないし。
まー、単に僕が知らないだけかもしれないけど。

それから、信玄の外交。
これね、信玄に対して好意的に見れば、臨機応変に同盟をしたり敵対したりを繰り返して、勢力を拡大したということになるのかもしれない。
でも、よーく見てみると、場当たり的な同盟破棄が多いような気もする。
しかも、一方的に同盟破棄している。
今川家、北条家、徳川家、織田家、全部信玄の方から同盟を破っている。

いやね、いくらなんでもこれはまずいって。
だって、信玄が亡くなった時点で、北条家との同盟は復活したけど、それ以外は全て敵。
しかも、東海・近畿と豊かな土地を支配する織田家に対して、武田家は甲信を中心とした貧しい土地ばかり。
国力の差は広がるばかりで、これでは信玄が長生きしたとしても、織田家を倒せたかどうか。
しかも、同盟破棄が多いせいか、ムダな戦が多いようにも感じるし。

というわけで、周囲を敵に囲まれるという厳しい状況の中、武田家を支えた勝頼の手腕。
もう少し評価してもいいような気もするけど。

今回はこの辺で。

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