方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/history-reappraisal/14/ 


伊東義祐~たった一度の敗戦から転落した人生

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 120
戦闘 142
智謀  80
魅力  77
野望  64

えーっと、今回は、伊東義祐。
正直、僕は、知らなかった。
ゲームの中では知ってたけど。。。
日向国(今の宮崎県)の戦国大名。

それで、九州の大名って、大友、島津、竜造寺のイメージしかないわけ。
だから、伊東って言われても、「誰?」って感じになる。
で、あえて、あえて、書くと、この方の没落っぷり、とても素晴らしい。
伊東家の最盛期を築きながらも、ここまで落ちぶれるかというぐらい落ちぶれた。

で、一応、能力値を見てみる。
低い。
どれも低い。
智謀に至っては80って、Fランレベル。
いやね、一時期は、あの島津家を圧倒した時期もあるんだから、もうちょっと高くても良いと思うんだけど。
まー、人生、歯車が狂うとこんなものってところでしょうか。。。

◆全盛期
さっきも書いた通り、伊東家の最盛期を築いたのは、伊東義祐。
で、伊東家を滅ぼしたのも伊東義祐。
で、こういう場合、評価としては低くなるのが、世間の相場となる。

伊東義祐は、1512年の生まれ。
だから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と比べると、だいぶ年齢は高い。
親子ぐらいの年の差か。

で、当時の伊東家は、兄・祐充が君主だった。
ところが、兄・祐充が若くして亡くなると、重臣の一人が権力を牛耳り、義祐は伊東家での立場を失う。
で、一旦は、国から逃亡しようとするも、近臣たちに引き留められて、国外逃亡もできなくなる。
ここで、別の重臣が、この重臣を討ち取り、内乱は終わったかに見えた。

すると、この別の重臣が権力を牛耳るのね。
で、再び、内乱勃発。
で、何とか内乱を鎮めるも、次の当主は、なぜか、弟・祐吉に。
結果、義祐は、出家の道を選ぶことになる。
ところが、この弟・祐吉までもが、若くして亡くなってしまう。
ここで、ついに、義祐が、伊東家の当主となる。

当時、伊東家は、飫肥城をめぐって島津家と争っていた。
それも、約百年。
一般的に、百年戦争と言うと、イギリスとフランスの戦いを指すけど、実は、伊東家と島津家も百年戦争をしていた。
しかも、飫肥城の争奪戦は、十数回に及んだとか。
川中島の戦いなんか目じゃない。

そして、1568年。
義祐は、飫肥城の争奪戦に勝利し、島津家を圧倒する。
ここに、ついに、義祐は、日向国(今の宮崎県)の完全支配に成功する。
そして、佐土原城を本拠地にすると、ここを日向の小京都と呼ばれるほどの町づくりをする。
また、同時に、領内に伊東四十八城と呼ばれる城を築き、どこから攻められても万全の態勢を敷く。

その一方で、朝廷や幕府に対しても、外交を展開していて、

1537年:朝廷より従四位下
1543年:朝廷より大膳大夫
1561年:朝廷より従三位
1564年:室町幕府相伴衆

となっていて、少なくとも、京都にもその実力が知られていたんだと思うのね。
それで、1560年代あたりが伊東家の全盛期。

◆再び、島津家との戦い
伊東家の全盛期を作り出した義祐だけど、それも長続きはしない。
1572年、木崎原の戦いで、伊東家は、島津家に大敗してしまう。
しかも、圧倒的な兵力差がありながらの、まさかの大敗だった。

実は、1560年に、義祐は、嫡男・義益に家督を譲って隠居をしていた。
ところが、1569年、嫡男・義益が、若くして病気で亡くなってしまう。
どうしてこうも、義祐の一族は若くして亡くなるのか。。。
で、義益の子が当主となるも、まだ幼子であったために、隠居していた義祐が、再び、表舞台に出ることになる。
しかし、人生50年の戦国時代にあって、年齢は60歳。
いやー、一旦隠居した者が、再び、60歳になって現役として頑張れって言われても、しんどかったと思うけど。

◆王朝の黄昏
木崎原の戦いで敗れたとはいえ、日向国(今の宮崎県)には鉄壁の防御があった。
そう、伊東四十八城。
もうね、日向国(今の宮崎県)そのものが、巨大な城。
だから、そう簡単に伊東家が滅ぶはずはない。
はずだったのが、あっさり滅亡。

出陣命令を出しても、従う家臣がいない。
島津家に寝返る者も出てくる。
そして、ついに、義祐は、日向国(今の宮崎県)を捨てると、国外へと落ち延びた。

目指した先は、豊後国(今の大分県)の大友宗麟だった。
実は、大友宗麟は、親戚筋にあたる人物だった。
いわゆる豊後落ちというやつで、義祐一行は、島津勢に見つからないように遠回りしたり、急峻な崖を登ったりして、逃げたんだとか。
で、豊後国(今の大分県)にたどり着いた時には、従者の数はごくわずかだった。

それで、落ち延びてきた義祐一行を、大友宗麟は暖かく迎い入れると、日向国(今の宮崎県)奪還を目指して挙兵する。
なんせ、当時の大友家は、北九州6か国を支配する九州最強大名。
義祐の中には、日向国(今の宮崎県)に戻れる日も近いと思ったかもしれないね。

ところが、大友家は、島津家に大敗。
それどころか、今度は、大友家が島津家によって滅亡寸前に追い込まれてしまう事態に。
こうなると、義祐には、立場がなかった。
自分の国を滅ぼしただけでなく、助けてくれた国まで滅亡に導いてしまうとうありさま。
うーん、これじゃあ、完全に疫病神、貧乏神か。。。
それで、義祐は、大友家内での居場所を失うと、海を渡って伊予国(今の愛媛県)に落ち延びる。

そして、しばらく、伊予国(今の愛媛県)で生活をする。
まー、あそこは、道後温泉があるからね、人生の垢を落とすには良かったんじゃない?
テキトーに書いたけど。
ただ、生活は困窮したみたいで、仕事を探そうとしたのか、遠縁を頼って播磨国(今の兵庫県)に、再び移動する。
で、そこで、義祐は、遠縁の者に三男・祐兵の士官をお願いする。
(実は、この祐兵が、再び、伊東家を大名として復活させている。)

その後は、義祐、各地を自由気ままに放浪する。
もしかしたら、人生で一番幸せな時期だったかもしれない。
しかし、それも束の間。
病気にかかり、自分の死期が近いことを悟ると、祐兵に会うべく船に乗って堺へ向かう。

ところが、義祐は、船内で完全に衰弱してしまうと、船頭も扱いに困ったのか、堺の港に着くと、義祐を砂浜にぽいっと捨ててしまう。
で、そこをたまたま通りかかった祐兵の家臣たちが、「もしかして、うちの殿の父上ではないか?」と気が付くと、祐兵の屋敷に運ばれて、数日後に亡くなる。

享年73歳。
合掌。

今回はこの辺で。

次のページ>>宇喜多直家~趣味は暗殺、特技は裏切り 
前のページ>>伊達政宗~遅れてやってきた東北の風雲児 

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう