方丈記に、似た運命

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秘曲尽くしの事件

今回は、長明さんの音楽の話。

長明さん、和歌だけでなく音楽もすごかった。
その中でも琵琶の演奏が得意だった。
この辺が、他の歌人と大きく違う所だろうか。

歌人と呼ばれる人たちは、基本的に和歌だけに取り組んでいる。
それ以外の芸事には、ほぼ関心がない。
しかし、長明さんは、音楽も勉強した。
しかも、自分で楽器を作ったという記録もある。
本当かどうかは知らないけど。

これについては、ちょっとしたエピソードがある。
このエピソードも源家長日記から。

長明さんは、手習いという琵琶を持っていた。
この琵琶、長明さんの手作りだったという。
で、この琵琶を、後鳥羽上皇がどうしても欲しいと言う。
長明さん、断ることができなかった。
で、泣く泣く、この手習いを後鳥羽上皇に献上したんだとか。
しかも、この手習い、かなり評判が高くて、その後、色んな人の手に渡ったらしい。
後鳥羽上皇さんよ、家宝にして大事にしろよって思ったけど。。。

ただ、長明さんの凄いのは、楽器を演奏するだけでなく、楽器が作れるところ。
最初にも書いたけど、本とかどうかは分からないけど、信憑性は高いと思われる。
また、長明さんは、鴨川に建てた家も、ひとりで作っている。
方丈の庵もそう。
やはり、ものづくりの才能があったのではないか。

長明さん、中原有安に琵琶を習った。

中原有安。
歴史の教科書にも古典の教科書にも出てこない人物。
ただ、当時の音楽の第一人者だったらしい。
琵琶、太鼓、笛、箏(琴に似た楽器)など、様々な楽器の演奏が上手だったと伝わる。
で、長明さんの琵琶の腕前は、あっという間に上達する。
もともとセンスがあったのだろう。

ある日、長明さんは、演奏会を開く。
いまでいうライブコンサートだろうか。
参加者たちは、思いのまま、楽器を演奏する。
長明さんも演奏した。

ただ、長明さん、どうも、テンションがおかしかった。
曲が盛り上がるにつれて、おかしくなっていった。

どうも長明さんには、こういう所がある。
悪い人ではないし、真面目な部分もあるんだけど、気分屋のところがあった。
平たく言えば、すぐに調子をこくという奴。
まー、芸術家なんて、そういう部分もあるだろう。

琵琶には、秘曲とよばれる楽曲があった。
秘曲だから、秘密の曲。
むやみやたらと演奏してはいけない曲。
で、この秘曲を演奏するためには、

師匠からきちんとその曲について伝授され、
師匠から演奏しても良いと認められた者が、
師匠から演奏しても良いと認められた曲

に限って演奏しても良いとのことで、これらを満たさないと演奏することはできなかった。

で、琵琶の秘曲には、次の三曲があった。

啄木
流泉
揚真操

長明さん、揚真操は、免許を受けていた。
ところが、その後、師匠だった中原有安が亡くなってしまう。
で、啄木、流泉については免許を受けていなかった。

ところが、長明さん、完全にハイの状態だった。
自分を押さえられなかった。
どうしても、啄木を演奏したくなった。
でも、啄木は、免許を受けていない。
でも、演奏会は最高潮に達し。。。

長明さん、ついに、啄木を演奏してしまう。
それで、演奏会は、無事に終わった。
ところが、数日後、恐れていたことが起きる。

長明さんの演奏した啄木が、とても良かったという噂が広がる。
そして、その噂を聞いた者の中に、藤原孝道という者がいた。
この方、朝廷の木工頭楽所預という音楽専門の部署の者だった。

Wikipedhiaによると、若い頃、「啄木」に執心したとある。
それで、師匠だった藤原師長が、藤原孝道でない別の弟子に「啄木」を伝授しようとしたところ、急に体が痩せ衰えたとある。
で、藤原師長は、藤原孝道の「啄木」が「西流」であったことから、別の弟子には「桂流」の「啄木」を伝授するとしたところ、見る見るうちに元気になったんだそう。

まー、これだけ読むと、なんか変な話にも聞こえるけど。
分からないけど、藤原孝道には、「啄木」に何か特別な思い入れがあったのかもしれない。
で、藤原孝道は、これを後鳥羽上皇に報告する。
今でいうチクリね。

で、その話が、文机談という作品に書かれてある。
それによると、藤原孝道は、後鳥羽上皇に次のように言ったという。

古来より、秘曲啄木を大勢の前で演奏した試しはありません。
それを長明は、身分の低さもわきまえず、師匠から許可を受けていないにもかかかわらず、偽って秘曲啄木を演奏しました。
これは、重罪です。
速やかに事の次第を問いただしてください。

しかし、後鳥羽上皇は、和歌所寄人としての長明の活躍を認めていた。
しかも、別に国家の法を犯したわけでもない。
で、一旦この件は、私が預かると言って、ほとぼりを冷まそうとした。

ところが、藤原孝道は、しつこかった。
後鳥羽上皇に、長明の件はどうなりましたかと何度も聞いてくる。
で、後鳥羽上皇、仕方なく、長明さんに質問した。
「お前は、なぜ、啄木を演奏したのだ?」

それに対して、長明さんは、次のように答えた。

自分は、揚真操を流泉に似させて演奏しました。
しかし、それは、自分がこの世に生を受け、琵琶を極めたいという高い志からです。
それは、琵琶を志す者として当然ですあり、自分としては後悔していません。
また、確かに自分は身分の低い者ですが、琵琶に身分の高い低いもありません。
よって、今回のことが重罪にあたるかどうかは、全て上皇様のご判断にお任せ致します。

で、結局、どうなったのか僕はその先を知らない。
文机談では、これが原因で長明さんは出家して、伊勢に向かったとあるらしいけど、これは文机談が間違っている。
だから、この件がどうなったのか分からない。
ただ、この話を読むと、「瀬見の小川」もこれに近いかもしれないと思ってしまう。

今回はこの辺で。

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