方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。

【原文】
火本は樋口富の小路とかや、舞人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ心ならむや。

【訳】
火元は樋口富小路という所だそうだ。舞人を泊まらせるための仮設の宿泊施設から火が出たらしい。火は、荒れ狂う風に煽られてあちこちに飛び火していった。その火は広げた扇のように末広がりに広がっていった。火元から遠い家は煙に巻かれ、逆に近くの家は炎に包まれた。荒れ狂う風が炎を地面に叩きつけ、そのため、空には灰が舞い上がり、空は一面真っ赤に染まった。さらには、風によってちぎられた炎が、数百メートル先のまた別の所へと飛び火していった。大火に包まれた人々は生きた心地もしなかっただろう。

【わがまま解釈】
引き続き、安元の大火のお話。
ここでは、火事がどのように広がっていったかを書いている。
で、火元は、舞人を泊まらせるための仮設の宿泊施設だったらしい。

舞人というのが良く分からないけど。
どうも、雅楽に合わせて踊る人のことらしい。
今風に言えば、ダンサーとかパフォーマーでしょうか。。。
まー、何かのイベントに呼ばれて、そこに宿泊していたんでしょうかね。
分からないけど。。。

で、事件が起きる。
火事が発生するのね。
まー、個人的には、火はちゃんと消せよって思うけど。。。

で、今でもそうだけど、ホテルや旅館って、火事が起きた時に大火事になるケースがある。
有名どころだと、ホテルニュージャパン。
で、こういう宿泊施設って、きちんと消火システムを取っていない場合があったりする。
特に、ラブホテルとか簡易宿泊施設とかだと、この傾向が強かったりする。

で、この舞人たちが宿泊した施設も、大した消火システムがなかったのかもしれない。
そもそも、当時の消火システムがどれくらいのものかも分からないけど。
まー、多分、大したことはないと思うけど。
あと、火事の発見が早かったのか、遅かったのかも気になるけど。

それで、僕たちが、火事をイメージする時って、火元から円になって燃え広がっていくイメージがある。
じゃないですか?
ところが、今回の火事は、どうもそうではなかったらしい。
その晩は、風が強かったらしいけど、炎が風にちぎられてどんどん飛び火したとか。

しかも、それが数百メートルのレベルで飛び火したらしい。
うーん、恐ろしすぎる。。。
だって、これじゃあ、防ぐにもあっという間に火が迫ってくるし、もしかしたら逃げる前にやられてしまうこともあったんじゃない?

恐らく、当時の都の人たちも、その延焼の早さに驚いたんじゃないでしょうかね。
もちろん、火だけじゃなくて煙にもやられるわけだし。
しかも、消防署もなければ、町火消もないだろうし。

で、最終的に、都の3分の1が焼けたらしい。
ていうか、これだけ焼けたら、もう完全に都市機能はマヒ状態だと思うんだけど。
前回、被害の具体例として、皇居の朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などを挙げたけど、これら以外にも貴族の屋敷が多数消失している。

例えば・・・

・時の関白であった藤原基房
・内大臣の平重盛
・大納言の徳大寺実定

などの屋敷がそうだった。

それで、本来なら、朝廷は、復旧工事を指揮しないといけなかったと思うのね。
いや、実際、指揮・命令は、していたのかもしれない。
ところが、朝廷トップだった後白河法皇は、この安元の大火の約1か月後に平家打倒を計画している。
いわゆる「鹿ケ谷の陰謀」というもの。
個人的には、そんな暇があるなら、平安京の復旧工事の対応をしろよって思うんだけど。。。

で、今回はここまで。
ここからは雑談。

この安元の大火と鹿ケ谷の陰謀の両方の事件で、割を食った人物がいた。
それが、上にも出てきた平重盛。

平重盛。
この方、平清盛の長男として、将来を期待されていた人物だった。
清盛が亡くなれば、当然、平家一門の総帥となるはずだった。
ところが、父・清盛よりも先に亡くなってしまう。

平家物語では、平重盛の評価はとても高い。
知勇兼備の武将として、温厚な人物として描かれている。
もーね、平家の良心的な存在。
個人的には、平重盛が早死にしなければ、平家の運命も違ったものになっていたと思うけど。

それで、平重盛と鴨長明。
この二人、全く異なるけど、なんか似ている部分もある。
まー、僕が、勝手にそう思っているだけなんだけど。

平重盛は、平家の御曹司。
鴨長明は、下鴨神社の御曹司。
だから、二人とも、立場は違えど名門の出身。

また、平重盛は、母親の身分が低かったようで、自分を支援してくれる有力な身内がいなかったらしい。
しかも、上に書いた鹿ケ谷の陰謀では、義兄が平家打倒の計画に参加していたことが分かり、重盛は平家一門の中で完全に立場を失う。
一方の、長明さん、父・長継が亡くなると、自分を支援してくれる有力な身内がいなかったために、下鴨神社の正禰宜惣官になり損なっている。
つまり、二人とも名門の御曹司だったけど、その地位は不安定だった。

それから、この平重盛、後白河法皇と父・清盛の潤滑油としての役目をしていた。
ただ、実際は、完全な板挟み状態。
いつも苦労をしていたらしい。
で、最終的に、「トクシナバヤ」と言って死んだらしい。

「トクシナバヤ」
今風に言うと、「あー、もう死にたい」ということらしい。
よほど、精神的に追い詰められていたのかもしれない。
ちなみに、長明さんも、父が亡くなった後に、「自分も父の後を追って死にたい」と言っている。

それから、平重盛は、上でも書いたけど、温厚な人物として書かれてある場合が多い。
ただ、殿下乗合事件なんかを見ると、怒り狂った時は怖い人となり、そういう意味では、重盛は激情型のタイプとしての性格もあったかもしれない。

激情型のタイプなら、長明さんも負けていない。
長明さんの場合、激情型のタイプなんだけど、その一方で、メンタル的には弱いタイプ。
後鳥羽上皇の推薦がありながらも、河合神社の禰宜になり損なった時は、よほど悔しかったのか和歌所寄人の職さえも辞めてしまっている。
しかも、長明さん、後鳥羽上皇から「和歌所寄人の職に戻っておいで」と言われるも、「まさか、こんな不幸な結末が待っているとは思わなかった」といった自分の不幸を嘆く和歌を詠んだりしている。

もしかしたら、この二人、話せば馬が合ったかもしれない。
テキトーに書いたけど。

今回はこの辺で。

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