方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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瀬見の小川事件①

今回は、瀬見の小川事件。

長明さんには、いくつかのエピソードがある。
「事件」とあるけど、そんなに大した事件ではない。
ただ、僕の中では、長明さんを知る上で面白い事件。
で、ちょっと紹介したいと思う。

この話、日時と場所は不明。
おそらく、下鴨神社で行われた歌会の時の話だとは思うけど。
で、この歌会のテーマ、「月と川」だったそうです。
そして、長明さん、次のような和歌を詠む。

一応書くと、今回の話は無名抄から。
無名抄というのは、長明さんが書いた和歌の教科書。
和歌の教科書を書くぐらいだから、長明さん、かなりすごい人物なんだね。

【原文】
石川の 瀬見の小川の きよければ 月もながれを たずねてぞすむ

【訳】
石川の瀬見の小川の流れがあまりにも清らかで美しく、月もその流れをじっと見つめている。

これ、長明さんの自信作だった。
長明さん、石川の瀬見の小川の流れの美しさを見事に表現した。
あまりにも美し過ぎて、夜空に浮かぶ月も、川面に映る月もどちらもが川の流れに見とれてしまい、じっと見ている。
しかも、川面に映る月さえも、また美しい。

テキトーに書いたけど、こんなところだろうか。
詠んだだけで、美しい風景が浮かぶ。
夏井先生も手放しで褒めてくれるんじゃない?
また、テキトーに書いたけど。。。

ところが、参加者たちが一様に首をかしげる。

「はて?瀬見の小川ってどこの川のこと?」

そう、瀬見の小川なんて、聞いたことがなかった。
で、参加者たちが、「そんな川知らないぞー」って言うわけ。
で、長明さん、自信作だったにもかかわらず、この時の歌会の勝敗は、一旦保留となった。
長明さんの性格からすると、相当悔しかったかもしれない。

それで、この歌会の判定者は、顕昭という者だった。
この方、当時の和歌の世界を代表する有名人だった。
そして、その顕昭も、「瀬見の小川は知らないが、もしかしたら自分が知らないだけで、実は、こういう歌枕があるのかもしれないが・・・」と悩んだ。
ただ、顕昭は、和歌そのものは評価していた。
顕昭は少し思案して、判定を一旦保留とする。

で、後日、顕昭は、長明さんから、「瀬見の小川というのは、実は、鴨川の別名なんです」と聞かされる。
そして、下鴨神社の中にある古い書物を取り出してきて、「ここにそう書かれてあります」と顕昭に見せる。
これで、顕昭も、胸のつかえが取れて、すっきりする。
「あー、判定を一旦保留にしておいて良かった。この和歌は、やはり素晴らしかった」

で、これで、一件落着。
と思ったら、この話、ここからが本題となる。

【原文】
その後、この事を聞きて、禰宜佑兼大きに難じて侍りき。「かやうの事は、いみじからん晴の会、もしは国王・大臣の御前などにてこそよまめ。かゝる褻事によみたる、無念なる事なり」と申し侍りし・・・

【訳】
その後、この話を聞いた下鴨神社の正禰宜惣官だった鴨祐兼が、大いに非難してきた。
「この「瀬見の小川」という表現は、もっと大事な歌会、あるいは、天皇や大臣がいるような場面で使うべき表現です。それをこともあろうに、こんな小さな集まりの歌会に使用するとは、考えが浅過ぎる!!」と言ってきました。

鴨祐兼、覚えていますか?
下鴨神社の正禰宜惣官の地位を巡って敗れた相手。
長明さんの不倶戴天の敵。
顔も見たくない奴。

とにかく、この鴨祐兼は、長明さんの前に立ちはだかる。

で、この鴨祐兼が、自分の和歌を非難する。
「軽々しく、瀬見の小川を使いやがって」と。
もしくは、「下鴨神社の正禰宜惣官である私に、何の断りもなく勝手に使いやがって」というのもあったかもしれない。

鴨祐兼が、どれぐらい和歌の腕前があったかは分からない。
単に、かつて倒した相手に、文句を言いたかっただけかもしれない。
長明さん、カチンときたと思う。

歌会で「瀬見の小川」を使って何が悪い?

長明さん、和歌と音楽だけは、えらーい先生について勉強している。
相当、自信がある。
お前ごときが、俺の和歌に論評するのは、片腹痛いわ。

・・・と思ったかもしれない。

いや、もしかしたら、「貴重なご意見、ありがとうございました。」とお礼を言ったかもしれないけど。
いや、分からないけど。。。
テキトーに書いて、ごめんなさい。

ただ、顕昭にも評価されたとおり、この和歌は秀でていた。
特に、この「瀬見の小川」。
この「瀬見の小川」が歌枕として、好評だった。
しかも、その作者は自分。

鴨長明の名は「瀬見の小川」第一号として、刻まれる。
長明さん、嬉しかったと思う。
歌人として、これほど名誉なことはないかもしれない。

ところが・・・
ここから話が、また、面白くなる。
みんなが「瀬見の小川」をまねするのね。

無名抄を読むと、次のように書かれてある。

【原文】
隆信朝臣此の川をよむ。又顕昭法師、左大将家の百首の歌合の時、是をよむ。

【訳】
(ところが、)ある歌会の席で孝信朝臣が「瀬見の小川」という歌枕を使用しました。
さらに、顕昭までもが左大将家の百首の歌会の時に、「瀬見の小川」という歌枕を使用しました。

みんな、「瀬見の小川」は、いいねと思っていた。
で、まず、隆信朝臣が真似をしたとある。
で、次には、顕昭までもが真似をしたとある。

分からないけど、顕昭なんかは、最初に長明さんの「瀬見の小川」を聞いた時、これはいいぞって思ったんじゃない?
で、自分も今度つーかおって思ったんじゃないの?
なんかそんな気がするけど。。。

ただ、みんなが「瀬見の小川」を使いだしたことで、「瀬見の小川」の第一号が長明さんだったことは、忘れられていったらしい。
うーん、残念。。。

最後に、話が脱線するけど「中二病」って伊集院光さんが一番最初に言ったって知っていますか?
ほとんどの人は知らないよね。。。

今回はこの辺で。

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