方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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毛利元就~大器晩成を絵に描いたような人生

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 196
戦闘 178
智謀 200
魅力  97
野望  94

えーっと、今回は、毛利元就。
大河ドラマだと、僕が大学生のときか。
配役は、毛利元就/中村橋之助、大内義隆/風間トオル、尼子晴久/高嶋政宏、陶晴賢/陣内孝則、など。
で、微妙に違和感があったのが、小早川隆景/恵俊彰だった。

その恵俊彰。
「ホンジャマカ」では、笑いだとか場を和ませることを学んだ。
「毛利元就」では、策略の重要性だとか演技を学んだ。
「東京フレンドパーク」では、関口宏から番組の仕切り方を学んだ。

そして、今、これらを踏み台にして、お昼の顔としての地位を手に入れた。
ひるおび。
けっこうな実力者である。
テキトーに書いたけど(笑)

毛利元就と言えば、安芸国(今の広島県)の戦国大名。
で、大河ドラマの時は、広島県は言うまでもなく、近隣の山口県、島根県もけっこう盛り上がった。
山口県は、毛利元就の主君だった大内義隆の本拠地。
島根県は、毛利元就のライバルだった尼子晴久の本拠地。

当時、僕は、島根県に住んでいた。
で、のぼりを立てたり、ポスターを貼ったり、けっこう盛り上がっていたように思う。
まー、観光客の数とか、経済効果は分からないけど。
ただ、島根県の知名度は、間違いなく上がったと思う。

だって、島根県なんて、正直、日本一マイナーな県。
ほとんどの人は、島根県がどこにあるか知らない。
中には、島根って鳥取にあるんだよねって・・・
違うからね。
まー、そんなんだから、いまだに島根県と鳥取県の区別がつかない人が多い。
ちょっと残念、だいぶ残念。

ところで、この毛利元就、僕は好きなんです。
世間では、智謀の限りを尽くしたみたいなイメージが強い。
でも、僕の中で毛利元就と言えば、おしん大名。
大内・尼子の二大勢力に挟まれながらも、最後はその大内・尼子を倒してしまうというすごさ。
羨ましい限りの大器晩成。

で、今回は、3つのテーマから書いていく。

●小領主でありながら西日本最大の大名として君臨
毛利家って中国地方一帯に覇を唱えた大大名というイメージが強い。
しかも、水軍のイメージも強い。
だから、その勢力範囲は、陸だけでなく海上にも及んでいた。
なんて書いている文献もあったりする。

ところが、毛利家って、もともとは、安芸国(今の広島県)の山奥の国人領主だったそう。
で、毛利元就が初陣で率いた兵力、およそ千人。
つまり、この時点では、毛利家って完全な弱小勢力だったわけ。

それが、あれよあれよという間に、中国地方を支配する。
しかも、九州北部、伊予国(今の愛媛県)にも勢力を及ぼしている。
もう、スゴイとかし言いようがないよね。

●絶体絶命のピンチを乗り越えて
毛利元就、初期の頃の動員兵力は千人ほど。
だから、戦をしても、つねに敵の方が兵力が多い。
相撲で言えば、舞の海。
小さいから、技術(智謀)で相手を上回るしかなかった。
で、毛利元就、織田信長の桶狭間に匹敵するような大勝利を何回もしている。

①有田中井手の戦い

毛利元就/約千 VS 武田元繁/五千

これ、毛利元就の初陣。
このとき、元就は20歳で、初陣としてはかなり遅い部類。
で、圧倒的兵力差にもかかわらず、項羽と謳われた武田元繁を討ち取る。

②吉田郡山城の戦い

毛利元就/二千四百 VS 尼子晴久/三万

一時期、毛利家は、尼子家に従っていた。
ところが、その尼子家が、毛利家の家督相続に介入してきた。
で、毛利家、それに不満を示して、大内家に寝返った。

それを知った尼子家、ついに三万の大軍で毛利元就がいる吉田郡山城を攻める。
僕なら、ソッコーでクツでも舐めて許してもらうところ。
で、この戦い、援軍で駆け付けた大内軍が尼子軍を蹴散らして、毛利元就の守り勝ち。

③厳島の戦い

毛利元就/四千 VS 陶晴賢/二万

戦国時代でも指折りの戦い。
実際のところは、ここまでの兵力差はなかったとか、元就が出した感状がないとか、分からない部分も多いとか。
ただ、元就が大勝利を収めたのは間違いないみたい。
で、この戦いで大内家を乗っ取った陶家を倒し、残った尼子家を平らげて、中国地方の主となる。

●完全なる大器晩成
毛利元就ほど大器晩成が似合う武将っていないと思う。
小領主の子として生まれ、小さい頃は、粗末な城に追いやられる。
しかも、自分の家臣に自分の領地を奪われるというプチ下克上みたいなことをされている。
幼くして父母と生き別れ、19歳の時に兄が亡くなり、兄の子を盛り立てながらも実質的な当主になる。
ただ、周囲を大内と尼子の二大勢力に挟まれ、いつも顔色伺い。

それで、毛利元就って75歳で亡くなるんだけど、転機となった厳島の戦いが59歳。
つまり、59歳まで大内・尼子・陶と長いものに巻かれながら、強い方に味方して生きてきたわけ。
聞いた話だと、厳島の戦いも、もともと元就は戦う気がなかったとか。
それを子どもたちが「もう陶晴賢、嫌い!戦おう!」って言いだしたから戦に踏み切ったっていう話もあるそうだけど、意外とそうかもしれない。

だって、59歳ですよ。
陶と一か八かの戦いをするよりも、嫌いでも仲良くして、家名を保った方が良いという選択肢もあったはず。
で、後のことは、次の世代(子どもたち)に任せるとかね。

最後に、ちょっと余談。
毛利元就だけど、相当な数の書状が残っていることでも有名なんだとか。
ただ、自分が大内・尼子に挟まれ苦労の連続の人生だったせいか、毛利元就の書状って、かなり説教じみているんだとか。
しかも、長くてくどい。

特に、長男の隆元、孫の輝元に対しては、ダメ出しが多いんだとか。
うーん、今でいう、野村監督みたいなものか。。。
で、残した手紙の中には、「毛利家のことを良く思うものは、他国にも毛利家内にもいない」とか「兄弟の仲が悪くなれば、毛利家は間違いなく滅亡する」などといったことが書かれており、説教じみた側面もあるみたい。
自分の死後、毛利家の将来が心配だったんでしょうね。

今回はこの辺で。

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