方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

当サイトはリニューアルします。
新サイトはこちらから見えます。
※新サイトの同じページに移動します。
  https://shinfoni.webnode.jp/classic-history/history-reappraisal/39/ 


歴代天皇の話②

前回からの続きです。

◆弘文天皇
弘文天皇も知名度は低い。
ていうか、一般的には、弘文天皇よりも大友皇子として知られている。
というのも、弘文天皇、天皇になったかどうかが疑わしいらしい。
日本書紀を見ても、「弘文天皇」の章はないんだとか。
それが、明治時代に、明治天皇が大友皇子に対して「弘文天皇」と名付けたことから、天皇となっている。

それで、この弘文天皇を有名にしたのが壬申の乱。
ただ、弘文天皇にしても壬申の乱にしても、どうも知名度が低い。
壬申の乱というのは、弘文天皇と大海人皇子との戦い。

弘文天皇は、天智天皇の皇子。
天智天皇の晩年は、太政大臣として天智天皇を補佐している。

一方の大海人皇子は、天智天皇の弟。
一時期は、天智天皇の皇太子となるが、弘文天皇が生まれてから、皇太子としての地位が揺らぐ。

そんな状況で、天智天皇が、後継者指名をしないままに亡くなる。
で、とりあえず、弘文天皇が天智天皇の後継者として朝廷のトップとなる。
ところが、大海人皇子がこれに反旗を翻す。
そして起きたのが壬申の乱となる。

ちなみに、壬申の乱は、古代日本で起きた内乱としては最大規模らしい。
しかも、本来なら、朝廷が勝つのがふつーなんだろうけど、予想に反して反乱軍(大海人皇子)が勝利をしてしまう。
それで、弘文天皇は、最終的に首をつって自殺する。

結局、弘文天皇は、父・天智天皇が亡くなってから、壬申の乱に敗れて自殺するまで、わずか半年だったとか。
分からないけど、天皇としての実績は、全くなかったんじゃないだろうか。
そういう事情もあって、弘文天皇は天皇として認められなかったかもしれない。

最後にどうでもいい話を一つ。
この壬申の乱の際、大海人皇子は、美濃国(今の岐阜県)のある小高い山に陣を敷く。
そこで、地元の村人から桃をもらうと、その桃を兵士たちに配って、士気を高めたとか。
それ以来、その山は「桃配山」と呼ばれるようになる。
そして、時は流れて、関ケ原の戦い。
ここに陣を敷いたのが、徳川家康だった。
多分、家康は、この故事を知っていたんだと思う。

◆嵯峨天皇
僕の中で、嵯峨天皇と言えば、三筆の一人ということぐらいか。
三筆というのは、昔の字の達人と言われた人たちで、空海と橘逸勢と嵯峨天皇の三人のこと。
確か、就職試験かなんかの一般常識で習ったと思う。
でも、それ以外の実績については、全く知らない。

で、調べてみると、嵯峨天皇、いくつかの興味深いエピソードがあった。
それは、平安京還都、臣籍降下、言葉遊び。

①平安京還都
嵯峨天皇のお父さんは、桓武天皇だった。
桓武天皇と言えば、鳴くよウグイス平安京で有名な方。
それで、桓武天皇が亡くなると、嵯峨天皇の兄・平城天皇が跡を継ぐ。
ところが、ここで、平城天皇は、都を平城京へ戻してしまう。

その結果、都は、平安京(新都)と平城京(旧都)の2つで分裂をしてしまい、当然、朝廷も2つに分裂してしまう。
で、この状況を鎮めて、再び、都を平安京と定めたのが、嵯峨天皇なんだとか。
で、僕たちは、ふつう、桓武天皇が平安京を都としたと思っているけど、僕の愛読書・方丈記によると、「平安京は、嵯峨天皇の代に新しい都となった」と書かれてある。

②臣籍降下
嵯峨天皇、ものすごく子どもの数が多かったらしい。
一説によると50人近くいたとか。
こうなると、たとえ我が子でも、皇族として養うことが難しくなってくるのね。
それで、嵯峨天皇、自分の子どもたちを皇族から落として、臣下とさせている。

一応書くと、嵯峨天皇によって臣籍降下した者たちが名乗った姓が「源」なんだとか。
つまり、源氏のスタートは、嵯峨天皇にはじまるらしくて、これを嵯峨源氏というらしい。
ちなみに、お父さんの桓武天皇によって臣籍降下した者たちは「平」の姓を与えられていて、桓武平氏と言われている。

③言葉遊び
ある時、嵯峨天皇は、家臣の一人にこれが読めるかと言って問題を出した。
それが、これ。

「子子子子子子子子子子子子」

これ、読める?
答えは、

「猫の子仔猫、獅子の子仔獅子」

だそう。
僕は、全く読めなかった。
ていうか、読む気もしなかったけど。。。

◆崇徳天皇
この崇徳天皇も、知名度は低いと思い。
日本史の教科書だと、崇徳上皇という名前で出ていたと思う。

崇徳天皇、父・鳥羽上皇とは仲が悪かったらしい。
それで、父・鳥羽上皇は、崇徳天皇が4歳の時に、崇徳天皇に譲位をすると、院政を開始する。
ところが、20歳の頃、父・鳥羽上皇から「明日から近衛(崇徳天皇の弟)を天皇にするから、よろしくな」と言われると、皇の地位を追われてしまう。

それで、実は、崇徳天皇も父・鳥羽上皇のようにいつかは自分も院政をしたいと思っていた。
ところが、その願いも、父・鳥羽上皇にだまされて失敗してしまう。
しかも、父・鳥羽上皇が亡くなった際には、父・鳥羽上皇が「崇徳だけは来ても追い返してくれ」と遺言をしたために、崇徳天皇は親の葬式にも参加できなかったとか。

その後、崇徳天皇は上皇となるも、ここで後白河天皇と朝廷を二分する戦いが起きる。
これが保元の乱。
で、崇徳上皇、よほど運がなかったのか、この戦いで大敗をしてしまう。
そして、崇徳上皇は、讃岐国(今の香川県)に島流しとなる。

その後、讃岐国(今の香川県)で仏教に救いを求めて、写経をする毎日を送るも、ある日、その写経したものを後白河天皇に送ったところ、「気持ちわるっ!呪われてしまうわ!」とボコボコに言われる始末だったとか。
それで、それを聞いた崇徳上皇は、「絶対に許さない。この国を呪い滅ぼしてやる」と言って亡くなる。
そんな事情があってか、崇徳上皇、日本三大怨霊の一つに数えられている。
全然、うれしくないけど。。。
一応書くと、残りは、菅原道真と平将門。

そして、崇徳上皇が亡くなると、鴨長明の方丈記にも書かれてある五大災厄が起きる。
で、当時の人々は、「これは崇徳上皇の祟りではないか」とうわさしたそう。
当時の書物「吉記」などにも、「崇徳上皇の祟りをどうする?お祭りする?」といった内容が書かれてあるんだとか。

◆後白河天皇
後白河天皇、日本史の教科書だと後白河法皇の名前で出ていた。
この後白河天皇、さっきちょっと出てきた鳥羽上皇の第四皇子で、崇徳天皇の弟にあたる方。
つまり、天皇の子ではあったけど、第四皇子であるため、天皇になるとは誰も思っていなかったらしい。
で、実際のところ、天皇になるんだけど、ピンチヒッター的な天皇で、周囲からの期待もなかったとか。

それで、当時の記録を見ても、後白河天皇に対するコメントは、辛口が多い。
しかも、けっこう行き当たりばったりというか、節操がないというか、コロコロと態度を変える。
ただ、唯一評価できるとしたら、時代が、貴族から武士、朝廷から幕府へと変わる潮目の中で、朝廷を守り抜いたということぐらいでしょうか。

今回はこの辺で。

次のページ>>歴代天皇の話③ 
前のページ>>歴代天皇の話① 

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう