方丈記に、似た運命
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僕の心の中の鴨長明
前回、教科書の中の鴨長明について書いた。
で、多くの人が、
・身分の高い貴族
・悟りを開いた高僧
・人生を達観したお坊さん
だと思っていると書いた。
でも・・・
ちがーう!
全然、ちがーう!
本当に、ちがーう!
鴨長明について調べてみると、「鴨長明=立派な人」という印象は、がらっと変わる。
むしろ、「鴨長明=ダメ人間」の方がピッタリとくる。
ただ、これが面白くて、繰り返して読んだりしていると、それでも「鴨長明=立派な人」だと思ってしまう。
それで、鴨長明は、立派な人なのか、ダメ人間なのか分からなくなるのね。
立派なところもあるけど、ダメ人間。
ダメ人間だけど、凄いところもある。
とにかく評価が難しい。
鴨長明の人物像を知る上で、重要な資料である源家長日記。
そこには、次のように書かれてある。
「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが・・・」
これを訳すと、次のような感じとなる。
「だいたい、この長明なるものは孤児で、下鴨神社の人たちとの交流もなければ、下鴨神社の仕事をすることもなく、部屋に引きこもってばかりでしたが・・・」
鴨長明は、10代半ばの頃にお父さんを亡くしていて、周囲の者たちからは孤児と見られていたのかもしれない。
そして、20代の頃、下鴨神社の正禰宜惣官の地位を巡って争うもこれに敗れると、以降は、下鴨神社の人たちとの交流もなくなり、下鴨神社の仕事もさぼりがちになり、部屋に引きこもってばかりだったらしい。
つまり、今風に書くと、引きこもりのニート。
方丈記によると、鴨長明は、父方の母の家を相続するという約束で、ずーっとそこで暮らしていたが、「縁欠けて、身衰えて」、その家を追い出されたと書かれてある。
分からないけど、ニートで引きこもりということで、身内から愛想をつかされたのではないか。
で、家を追い出されて、鴨川の河原に家を建てて、一人暮らしをはじめる。
ここから、しばらくは、鴨長明の動向は分からない。
おそらく、和歌や音楽などの勉強をしていたのだろう。
ただ、源家長日記によると、50歳を前にして、鴨長明は、後鳥羽上皇の和歌所寄人に選ばれたとある。
で、その働きぶりを、源家長は、「和歌所寄人に選ばれてからは、途中で部屋を退出することもなく、朝から晩まで一生懸命に働いた」と書いている。
鴨長明という人物は、決して、仕事ができない人ではなかった。
やろうと思えば、とことんやる人だった。
で、そんな長明に、後鳥羽上皇が、一つのご褒美を与える。
たまたま、河合神社の禰宜に一つ空席ができた。
で、後鳥羽上皇、長明に、河合神社の禰宜になるように推薦状を書いた。
このあたりも、源家長日記に書かれていて、そのことを知った長明は、まだ正式な辞令が下りてもないのに、嬉しさのあまり涙を流して喜んだと書いてある。
実は、長明のお父さんも河合神社の禰宜から、下鴨神社の正禰宜惣官に上り詰めていた。
20代の頃に打ち砕かれた神職への道が開かれたことに、長明は、涙を流さずにはいられなかったのだと思う。
しかし、同族からの横やりが入ったため、最終的に、長明が河合神社の禰宜になることは叶わなかった。
それで、後鳥羽上皇も気の毒に思ったのか、下鴨神社の末社の一つの格を上げて、鴨長明をそこの禰宜にしようとする。
ところが、今度は、長明がその案を断ってしまう。
そして、ついには、和歌所寄人の職さえも捨ててしまう。
その後、後鳥羽上皇は、長明に自分の元に戻るように言ったらしいけど、結局、戻ることはなかった。
ただ、このままで終わるような長明ではなかった。
実は、60歳を目前にして、鎌倉を訪問している。
というのも、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が、和歌の師匠を探していた。
そして、和歌所寄人時代の同僚だった飛鳥井雅経が、鴨長明を源実朝の和歌の師匠に推薦したのだった。
このあたりのお話は、鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡にも書かれている。
それで、その結果はどうだったかというと、ダメだった。
で、失意の中、京都に戻る。
そして書いたのが方丈記だった。
方丈記の中頃に、次のような文章がある。
【原文】
すべて、あられぬ世を念じすぐしつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひめ、おのずから、短き運をさとりぬ。
【訳】
だいたいが生き抜くい世の中を、我慢しながら、心を悩ませて30年以上生きてきた。
その間、節目節目で挫折をし、自分の人生の運の無さを思い知らされた。
原文中に「念ず」とあるけど、これは「我慢する」という意味。
また、原文中に「折々のたがひめ」とあるけど、これは「その都度その都度思い通りにならない」と言う意味。
これだけでも、鴨長明の苦悩の人生が垣間見える。
僕が、方丈記を好きになったのは、実は、この一文が気に入ったからだった。
なんというか、鴨長明と自分が重なって見えた。
すごく親しみを覚えた。
僕の中では、鴨長明は、親しみを込めて「長明さん」ですよ。
本当に、よくぞ方丈記を書いてくれたと思った。
名門社家の御曹司として生まれながら、負け組の人生を歩むことになった長明さん。
もう、本当に華麗なる負けっぷりの人生だった。
そんな長明さんが、人生の最期に書き上げたのが方丈記なのね。
で、学校だと、「方丈記=諸行無常を書いた作品」なんて習うわけ。
でも、大人になって、今、改めて読んでみると、方丈記は、
「平安末期の都を舞台に、和歌と音楽にひたむきな情熱を傾けながらも、折々のたがひめに翻弄された男の不運な生涯を描いて、落ちぶれゆく者の悲しみと人生のはかなさと美しさが漂う幽玄の世界を謳いあげた文学作品」
だと分かった。
ちょっと良いように書きすぎか。。。
長明さん、下鴨神社の仕事もせずに、趣味の和歌と音楽に没頭する人生だった。
その点では、努力を怠ったようにも思う。
しかし、全く努力をしなかったのかというと、そうでもないように思う。
和歌と音楽については、トップクラスの腕前を持っていた。
だいたい、後鳥羽上皇と源実朝という当時の朝廷と武家のトップに会えるほどの人物なのだから、全く努力しなかったわけがない。
自分なりには相当努力したと思う。
ただ、その努力が、自分が望む方向に結びつかなかっただけかもしれない。
そして、このあたりも「折々のたがひめ」なのだろうか。
今回はこの辺で。
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