方丈記に、似た運命

― 懐かしい古典が、今、蘇る ―

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上杉景勝~上杉家を何とか守り抜いた名将

◆天翔記による能力値(政治・戦闘・智謀は200がMAX。魅力・野望は100がMAX。)

政治 162
戦闘 166
智謀 110
魅力  91
野望  75

えーっと、今回は、上杉景勝。
花の慶次のイメージもあって、まーまー知名度は高いと思う。
しかも、歴女からの人気は、かなり高い。
で、この上杉景勝、たいていの場合は、直江兼続、前田慶次とセット扱いされる。
で、また、直江兼続と前田慶次の人気も高いわけ。
当然、評価も高くなる。

と、まー、テキトーに書いたところで、まずは能力値のチェック。
政治、戦闘については、Aランクか。
ただ、智謀については、まー、ふつう。
関ケ原の戦いで敗れたことが響いたのかもしれない。

で、僕の勝手なイメージだけど、上杉景勝と言えば、「キャー、景勝さまー」なのね。
ごめんね、イメージが勝手すぎて。
でも、漫画にしても、パチンコにしても、かっこよく書かれているし、歴女からの人気も高いし、どうしても・・・
「景勝さま・・・カッコイイ」
「景勝さま・・・ステキすぎるー」
ってなるんじゃない?

ただ、これまた僕の勝手なイメージだけど、多くの人は、上杉景勝を誤解しているように思う。
「上杉景勝=華やか、きらびやか」と思っている人、多いんじゃない?
実際は、まーまーの苦労人だから。
で、今回は、そういう話をしたいと思うのね。

この上杉景勝、若い頃は、滅亡の危機の連続だった。
そもそもの発端は、上杉謙信が急死したことから始まる。
1578年、越後の龍・上杉謙信、急死する。
ところが、謙信は、生涯不犯であったので、実子がいなかった。

思うけど、戦国大名で実子がいないって、致命的じゃない?
やっぱ、子どもがいるって、大名として家を残すための大事なことだと思うし。
特に、戦国時代はそうじゃないかね?

でも、上杉謙信のライバルだった武田信玄の場合。
子どもはたくさんいたけど、最終的に武田家は滅亡している。
それに引き換え、上杉謙信、子どもはいなかったけど、上杉家は存続したからね。
それを思うと、歴史の面白さみたいなものを感じるねー。

ただ、上杉謙信に子どもがいないといっても、実子がいないだけで、養子は何人かいた。
で、その中で、上杉家の後継となれる者は二人。
一人は、謙信の姉の子だった上杉景勝。
もう一人は、相模国(今の神奈川県)の北条氏から人質として来ていた上杉景虎。

で、上杉謙信、どちらを自分の後継者とするかを決めていなかった。
謙信自身、まさかこんなにもあっけなく、自分が病死するとは思っていなかったんじゃない?
だから、後継者指名をしていなかったんだと思う。
しかも、病に倒れてからわずか四日後に病死している。
分からないけど、意識不明のまま亡くなったんだろうね。

それで、上杉景勝と上杉景虎の二人が、謙信の後継者として争う。
で、はじめは上杉景虎が優勢だった。
上杉景虎には、実家の北条家がバックに付いていたし、北条家の同盟国だった武田家も味方をしていた。
また、越後国(今の新潟県)内でも、景勝派は防戦一方だった。
つまり、この時点で、景勝が勝てる見込みはなかったように思う。

ここで景勝は、まず武田家と同盟をする。
この時、景勝は、武田家の菊姫を正室として迎える一方で、領土の一部、大量の金を武田家に差し出したとか。
武田家としても、織田・徳川を敵に回している以上、上杉家の内紛に巻き込まれるのは避けたかったと思う。
しかも、上杉景虎の実家の北条家も、景虎への援軍派遣が遅かった。
そして、ついに景勝は、猛反撃に転じ、ついに上杉景虎を倒した。
1580年、この内乱も終わる。
ただ、上杉家の勢力はだいぶ衰退する。

ところで、この景勝に味方した重臣に新発田重家という者がいた。
で、景勝、どういうわけか、この新発田重家に恩賞を与えなかった。
その結果、新発田重家、謀反を起こして独立をしてしまう。
しかも、先の戦いで上杉景虎に味方して敗れた者たちが、新発田重家に味方をしてしまう。
で、内乱再開。

さらに、このタイミングで織田家が攻めてくるわけ。
越中国(今の富山県)を平定した織田軍は、景勝のいる春日山城を目指して攻めてくる。
そして、このタイミングで武田家が織田家によって滅亡。
その結果、旧武田領からも織田軍が攻めてくる。
まさに、内も外も敵に囲まれ、絶体絶命。

ちなみに、この時期、景勝は、常陸国(今の茨城県)の戦国大名である佐竹義重に手紙を送っている。
そこには「自分はとても恵まれている。日本全国を相手に越後一国で立ち向かい、そして滅亡することは、あの世でのいい思い出になる」といったことが書かれてあるとか。
ちなみに、この時、景勝、わずか16歳。
まー、間違いなく、死を覚悟したと思う。

1582年6月3日。
春日山城の西の防衛拠点となる魚津城が落ちる。
城兵3800人は全員討死。

そして、次は、景勝のいる春日山城。
もはや景勝に逃げ場はなく、あとは華々しく戦って死ぬだけだった。
はずが、織田軍は攻めてこなかった。
というのも、魚津城が落城した数日後に、織田信長が本能寺の変で自害していたから。
そして、その知らせが届くや否や、織田軍は領国へ引き上げてしまった。

で、この事実を知った時の景勝の心情を思いやると、僕は、本当につらかっただろうなって思う。
ただ、多くの犠牲を払いながらも、景勝は、織田家の侵攻から上杉家を守り切った。
そして、その後、新発田重家の反乱も、何とか鎮圧をする。
ただ、上杉家の勢力は完全に衰退してしまう。

その後は、豊臣秀吉に臣従し、順調に出世を重ねる。
途中、国替えがあったものの、最終的には120万石の大大名となり、五大老の地位に就く。
分からないけど、秀吉は、景勝のことを評価していたんだと思う。
そして、このあたりが景勝にとっての絶頂期だったように思う。

秀吉が亡くなると、家康が台頭してくる。
で、家康がいちゃもんを付けてきたために、景勝は家康と戦うことを決意する。
そもそも、景勝は、上杉景虎との家督争い、織田信長との一連の戦い、新発田重家の謀反など、つねに滅亡と隣り合わせだったわけで、ちょっとおどしをかけられたぐらいで家康に屈服するような玉ではなかったように思う。

最終的に、上杉景勝と徳川家康の直接対決はなかった。
しかし、上杉景勝は、石田方に味方をして、徳川方の最上義光、伊達政宗と戦った。
しかし、関ケ原の戦いで徳川家康が勝利したことで、景勝は敗者となってしまう。
で、再び、滅亡の危機を迎えるも、外交努力のおかげもあって滅亡は免れたものの、領地は大幅にカットされる。

以上で、上杉景勝の説明は終わり。

で、こうして見ると、上杉景勝って漫画やパチンコみたいな派手さはなくて、いつも滅亡と隣り合わせで、その意味では、やはり戦国武将だったんだと思う。
偉大な先代(謙信)の後を継ぎ、若い頃から苦労の連続だったと思うけど、多くの大名が滅んでいった戦国時代にあって、家名を残したというのは十分評価していいのではないでしょうか。

今回はこの辺で。

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